football smile

the days turn into months and years

名波浩

2008-11-22 | football


当時は鹿島と磐田の2強がJリーグを牽引していた。浦和は相変わらずパッとしなかった。ちょうどその頃、国立競技場のゴール裏最上段に近い席で浦和vs磐田の試合を観たことがあった。高い位置から見下ろすと試合展開がよくわかるものだが、浦和は文字通り手も足も出ない状況だった。しかしよく見ていると、磐田にやられているわけではないことがわかってきた。浦和を翻弄していたのは、たった1人の選手だった。N-BOXという特殊なシステムの中央で、まるで味方の10人と敵の11人を彼が自在に操っているようだった。その磐田の背番号7は、代表では背番号10をつけていて、日本をW杯初出場へと導いた。

浦和以外の選手を好きになることは滅多にないのだが、どういうわけかこの人だけは別格なのである。残念ながら左利きにはなれなかったけれど、同じモデルのスパイクを真似して履いていた時もあったくらい。多分そのプレースタイルだとか人間性だとか、自分の理想とする選手像に近いからだと思うのだが、結局のところ理由はよくわからないままである。もちろん、この頃は日本代表の試合も欠かさず観ていた。みんなが中田英寿に心を奪われて時代の寵児としてもてはやしていた時に、ただひたすら黒子に徹するところがまたかっこ良かった。

最後に彼のプレーを見たのは、2年前の8月30日C大阪に在籍していた時で、最後に彼の姿を見たのは、今年の5月31日鹿児島空港のロビーだった。他人を寄せ付けないくらいものすごいオーラを放っていたのが意外だった。もう1度、彼のプレーを見たいなあと思ったりもする。その機会はあとわずかしかないけど。

右ひざのケガが、彼のキャリアを大きく左右したことは間違いない。あのケガがなければ、日韓W杯にだって出場していたかもしれない。しかし周囲の想いとは裏腹に、彼自身はケガのおかげで選手生命が延びたと公言している。ものは考えようということである。そういう考え方ができるというのはすごいなあと思う。あれはできない、これもできないという状況で、それでは一体何ができるのかを考える。絶頂期を過ぎた彼からは、そういうことを教えてもらったような気がする。

12・2号のサッカーマガジンは、「ガンバ大阪アジア制覇」を片隅に追いやって、彼が表紙と巻頭を飾った。「さらば、至高のレフティー。名波浩引退」。ウウム、さすがサッカーマガジン!見る目は確かである。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする