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流出雑記 

2015/4/23

2015年04月23日 | Weblog
雨続きの日が過ぎた。
花粉症は4月半ばを過ぎるとほとんど出なくなる。それでようやく布団を干せるようになった。冬用敷き毛布と電気敷き毛布は洗う。

最初のモッコウバラが咲いた。他のばらの生育は、最初につぼみをつけたのは粉粧楼、次がディオレサンス。勢いがあるのはクロードモネ。勢いがあんまりないブルドゥパルファム。
だいたい毎年一年でなくなっていたレモンバームとペパーミントとパセリが今年は冬を越えている。

朝、子供を産みたいか産みたくないかではなくそのどちらとも言えない心境の結婚して数年経つけど子供のいない三十代、つまり私のような女性のブログが何かしらでシェアされてタイムラインに出てきたのをざっくり読んだ。
結婚すると周り、特に目上の女性に多いが、悪気なく子供はとか早い方がいいよということを言われたりする。そう言われることを特にプレッシャーに思ったことはないし、そういうものだろうくらいにしか私は感じていなかった。

最近は積極的に欲しいとも欲しくないとも思っていない。なるにまかせる。この感覚はブログの女性とほぼ同じだと思う。
と言いつつ今のところ自分の体に他人を育む余裕はないんじゃないかと感じているのが正直な言い方かも知れない。それは生活その他自分が身を置く状況に対応してそう思う。
体の持っていき方の問題、ひとつ前に書いた葬儀について、どう生きて死ぬかについて思うときに、子供がいるかいないかでは違う展開があるという想像はつく。単に自分の面倒を見る人がいるかいないかではなくて。いたとしても面倒を見てくれるかどうかはわからないけれど。
そういう為ではなくて、自分の生きている限りがきたときに、その先にまだ続いて行くものが残るか残らないかの違い。それは私ではないけれどある部分私の要素を持っていて、私の見ることの出来ない世界を見、私の考えないことを考える。そういう他者を残すこと、未知へ開けた可能性を残すということ自体は、この先の世界がどんな状況になろうと関係なく肯定すべきことだと思う。それはわかる。わかるのだけど、そのことのみに必死になれない。往生際が悪い。いや逆か。子孫を残す=終わらない=往生際が悪いということか。じゃあ子孫を残さないのは往生際がいいということになるが、それもなんか違う気がする。つまりは往生際の際に居続け、そこで何かやりたいことがあるのか。