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流出雑記 

2011/7/6

2011年07月07日 | Weblog
昨夜焼いたタルトタタンは型から出そうとしたらタルト生地とりんごの部分が分離した。
そして1時間強焼いたのにりんごが飴色になっていない。くやしいので型に戻してもう一度焼く。
40分焼いて少し冷めた頃に型から出したがやはりタルトとりんごが分離。あきらめてタルトの上にりんごを並べた。そのかわりりんごには飴がかった色がついていた。味は悪くない。ヴァチュールのタルトタタンには遠く及ばないが。あれほどりんごを焦げる寸前まで煮詰めるには一体どれくらいの時間をかけて焼いているのだろうか。
机におやつと書き置きを残して仕事に出る。

曇り。
京阪で大阪へ。
京橋の京阪モール、お求めやすくなっておりますの声、30%offの文字、夏のバーゲンを通過して環状線へ。

仕事。
アトリエの持ち主は建物1階を仕事場、2階をアトリエにしている。板金の仕事で、機械で大量生産できない部品を作っているそうだ。だから仕事はなくならないと話していた。手に職。絵は趣味。
帰る頃に雨が降り出した。傘を借りて帰る。
京都に着いても雨は降っていた。予報では夜雨だったのに。
スーパーに寄って白ネギ、ししとう、納豆、料理酒、醤油、安かった豚肩ロース塊など買う。思ったより袋が重くなってしまった。

今夜はそば。鶏とネギの熱いだしにつけて食べる。だしは少し甘めがいいようだ。

タルトタタンの感想を聞くと、タルトが乾パン状態になっていたらしい。私は温かいうちに食べたのでそうでもなかったが、冷めるとそうなったか。焼き過ぎなのか。

今日は抹茶ミルクをゼラチンで固めた。明日固めるものも既に決まっている。

肩ロースは焼豚にする。
強火で焼き色を付けていると家の中が煙たくなった。においにつられてか夫は晩ご飯を食べたところなのにお腹を減らしてバゲットにリエットをのせてビールをあけてそのあと眠った。

数日続いた料理欲は今週からしばらくお休みだった稽古がはじまり、そういう時間がなくなっていくとわかっているから爆発しているものと思われる。台所も稽古場も好きだ。
熟成中の梅シロップもあと数日で飲める。梅酒ではないのは朝に飲みたいから。
焼豚は一晩寝かせて味を馴染ませる。
置いておくとおいしくなるもの、日々に編まれていく体、そういうものが好きだ。

2011/7/5

2011年07月05日 | Weblog
9時半に目覚ましをかけたのに起きたのは10時半。日課をこなすための1時間を失う。
朝の時間配分はミカトレ1時間(太陽礼拝にはじまるその他様々なものを組み合わせた勝手なトレーニングメニュー)朝ご飯30分身支度30分。

ゴミを出す。
3日前の朝、トーストを食べようと袋をあけたら、表面に白や黒の斑点模様が表われていた。
冬場は同じくらい置いたままでも平気だったのに。滅多に食べ物を捨てないし、冷蔵庫が小さいので傷ませるほど買えない。食べ物を捨てるのは嫌だがどうにも食べられないので燃えるゴミの袋にパンを入れた。それからもう3日経っているのだ。今あのパンはどういう状況になっているのか気になるがあんまり見たくない。結局袋を覗く事はせず、密かなうごめきをゴミ捨て場に置き去った。

外はからっと晴れている。昼前に家を出て地下鉄、阪急と乗り継ぐ。十三から宝塚線に乗り換える。
はじめて来る仕事場で地図には駅から徒歩5分、会場は池のとなりとあるので見つけやすそうだった。
駅から国道沿いをしばらく歩いていると、池が見えてきた。
よどんだ溜池で、ぬるそうな水の上に藻が浮いている。排水口に吸い込まれつつある藻の様子は不気味で見入ってしまった。



池の隣に立っている洋館風の建物がどうやら会場の公民館らしいが、公民館らしい陰気くささはなく、庭があり、ベーカリーカフェも併設されていて賑わっている。
久しぶりに民族衣装の仕事だった。簡単に着れて持ち運びも楽なサリーを持参しそれに着替える。
読む本を忘れて休憩時間が手持ち無沙汰だった。
土地柄なのか、描きに来ている方々もなんとなく上品な雰囲気だった。公民館でやっている絵画クラブは地域によって微妙に人の感じがちがう。その差によって同じような仕事をしていても疲労感に差がある。やはり見られながら見ているし聞いているし、体は場を感受してしまう。
今日のところはなんだか疲れた。仕事を終えて帰るが、2時間の仕事で往復に3時間半かかり、着衣なのでギャラが安いこと、なのに交通費が出ないことなどを加味して受けるべき仕事だったかどうかもう少し考えればよかった。仕事があるだけありがたいことなのだが、今月あと3回通わなければならないと思うと疲労ゲージが上昇する。

烏丸のラクエに寄って進々堂でバゲットを買って帰宅。
昨日リエットというのを作ってみた。猫町で食べたらおいしかったので、家でも作れないかとレシピを探してみたら案外簡単だった。
玉ねぎ粗みじん、にんにく、適度に油のある豚肉を適当に切って白ワインと水同量をひたひたに注ぐ。ローリエ、ローズマリーを圧力鍋に入れて30分ほど加圧。それをフォークの背でほぐしながらさらに煮詰めて汁気を飛ばし、塩、胡椒を強めに効かす。冷蔵庫で冷やして完成。これをバゲットに塗って遠慮なく食べたかった。
ここ数日作った事ないもの作りたい欲が旺盛で、そのために冷蔵庫にはインゲンと玉ねぎ、ベーコンのケークサレもあり、あとは家にあったツナと玉ねぎとじゃがいもを煮て、にんじんサラダを作って夕食。

もうひとつゼラチンで何かを固めたい欲というのもある。ジュースやヨーグルトを日夜固めてはデザートにしている。今日はコーヒーとミルクゼリーの2層。

残っていたキューリとにんじんをピクルスにする。
りんごを砂糖とバターで煮る。
タルトタタンのりんごの部分だけ作ってパンにのせて食べるとタルトタタンを毎日食べている気持ちになれるのではないかと思ったのだ。
でも煮詰めるほどにタルトタタンにしてしまいたいという気持ちも煮詰まって来た。気がつくと簡単にできるタルト生地をこしらえ、型に飴色のりんごを詰め生地を被せてオーブンに突っ込んでいた。ずっと台所にいた夜。





書と絵

2011年07月02日 | Weblog
京都市美術館に春頃までポーズしていた立像が出ていたので見に行った。
彫刻の展示室には人体とその他巨大な立体が混在している。鉄、木、石、プラスチック、さまざまな形状。魅力的なかたちとは何であったかよくわからなくなる。

平面の作品は日本画、洋画、書の順に見てまわった。
日本画と洋画には、巨木の根を描いている作品が多いように感じた。樹木はモチーフとして選ばれやすいものではあるだろうが、なんだか今回やたら目についた。
書はいまいち見方がわからないので、今まで通りすがりに横目で見る程度だったが、幼なじみが最近書道の学校に通いはじめ、師範を取るのだと先日会ったときに聞いた。それで書とはどういうものなのか今回は見る積極性をもった。

実家の隣は書道の先生で、小6まで通っていた。その家は和菓子屋さんだった。
店先から奥に入り、蒸した餅米やこしあんの甘いにおいのする通路を抜けて二階のお稽古部屋に上がる。階段を上がるにつれて和菓子のにおいに墨が混ざる。部屋に入る前に正座をして先生にご挨拶し、お手本をもらって空いている席に座り習字セットを広げる。
ここに来るなによりの楽しみは猫の七に会えることだった。あるとき迷い込んできてこの家の猫になったのだが、それが七夕の日だったので七という。鯖トラでエメラルドグリーンの目をしていて、そういえば七は小梅に似ている。あまり人にゴロゴロ甘えてこないところも。七は一度子供を産んで、生まれたての子猫を見せてもらった。3匹いて3匹とも七と全然似ていないねずみ色で毛の長い子たちだった。子猫たちは乳離れしてすぐに貰われていった。

中学に上がって部活を始めると教室を辞めてしまった。仮名を少しはじめていたが、文字を書く面白さというよりは、書道には楷書体をきちんと書かなければいけない窮屈な思い出が残っている。
七はよく先生机の足元にいたが、去年亡くなったと母から聞いた。

今回書の作品を見ながら、字の上手い下手というのはわからないし、何か書いてあるのかもわからないのだが、なんだか見ていて気持ちがよかった。
行為としては紙に筆跡を残すという点において日本画も洋画も書も同じであるが、書の痕跡には文字の形状と文字によって編まれた意味が付随するので、それによって筆にどれくらい墨を含ませ筆の運ぶかと、形状と意味の導線に沿った表現の手がかりがある。あらかじめ楽譜があってそれを演奏することに近いように思う。
そういう幅のなかで表現されるということ、文字、つまり記号を濃淡や強弱のなかで踊らせているというところがおもしろい。鑑賞者としては落ち着いて筆跡を見ることが出来る。書には余白がある。余白とはこのように痕跡を見るための空間だったかと思った。

絵画表現の場合、まず何を描くかという問題がある。モチーフを選択し、それを見ながらデッサンをとり、色を乗せる。楽譜のような導線はないにしても、一先ず手順というものはある。木の根、家、象、裸の女、花、果実、電柱、自販機、あるいはかたちではないもの。
何をどのように描こうが自由であり、塗り重ねて言い募ることも出来る。端から端まで隈無く手が入り、100号の画面いっぱいに描かれた絵画に惹かれるものがほとんどなかった。
描かれているもの、その私的な世界の広がりは見るものの視線を跳ね返してしまうように感じられる。筆跡を見る隙がなく、それより描かれているもの、描き込まれたメッセージのようなものがせり出してくる。得てしてそれが共感を呼ぶものとは言えず、なぜこれをここまで描かなければならなかったのかという不可解さが残る。

そうではなくて、ただ「描かれたもの」が見たいという欲求。

ではそのために何を描くべきか。私は何を描いているのだろうかという問いが跳ね返ってくる。

ペンという画材が好きだ。
私にとって手から意思を最も伝えやすい。が、その近しさが良くないのではないかとも思う。
ひたすら線を重ねていくような方法で描いているが、書の潔さを羨ましく思うのにそのように出来ず、ただ言い淀んでいるようなものを描いている。描きたいものはない。でも自分の内的宇宙を表したようなものを描きたいのではない。いや、描きたいものはないといいながらあるのだ。
私の場合それは日記に近いものかも知れないと少し思う。今日生きている体で描く。大きな紙に数日掛かって描くより、はがきの紙がいちばんしっくりくる感じがする。はがきサイズ。誰かに宛てたものの大きさ、というところもいい。