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流出雑記 

本と体

2015年01月10日 | Weblog

本屋で、あいうえお順に作家の名前が並ぶ文庫本の棚を行ったり来たりして、気付いたら三十分くらい経っている。そういうときは欲しい本が見つからないんじゃなくて、欲しいと思う本に出くわしに来ている。

この世界に存在する一生のうちに到底読みきれない星の数ほどの本のうち、私に解読できる言語で書かれていて、実際手に取り、書かれた文字を追うに至るものは、実はごく限られているいうことにあるときふと気が付いた。しかも本は増え続けている。想像の追いつかない紙の質量にくらっとする。

本を読むためには文字を追う目と、書いてあることを処理する脳みそと、ページをめくる手を動員するので、読みながら誰かと話しをしたり、片手間に何か用事をしたりすることはやはりできない。だから必然的に手に取った一冊とは、ある種の親密な時間を過ごすことになる。その相手を探すのだからそれなりに慎重になるけれど、かといって長時間ぐずぐずしていても出会うための反射神経が鈍ってしまう。

人気作家だとか受賞作であるとか問わず、惹かれるタイトルを見つけたら直感で手を伸ばす。最初の数行読んでみて、なんだかピンと来なけば棚に戻す。読んで少し気になったときは、その本を棚の整列より少し前に出して保留にしておく。それを繰り返す。棚を見渡せば、これまでそんなふうにすれ違ってきた本が何冊もあって、ああ、これは前にも一度手に取ったけれど、今回はどうだろうと、もう一度開いてみる。数行読んでみて、やっぱり今じゃないとまた棚に戻す。そうして見送る選択を数年繰り返して読まないままの本もある。

硬そうなもの、柔らかそうなもの、甘味、苦味、ピンと張ったもの、脱力したもの、今の私に必要な、不足している言葉の栄養素は、鉄分、コラーゲン、いやプロテイン、あるいは毒。書き出しの数行がぴたっとくれば、今この感覚がほしかったのだというのが分かるけれど、その尻尾を掴むのに時間がかかる。

本に印字されている文字の連なりは、それを書いた人の体が残した痕跡であるから、文字自体が肉筆でなくても、肉が関わっていない本はなく、また読む方も肉を関わらせずに本を読む事はできない。だからどうしても手に取るその時々に相性が発生する。読むことの体への浸透性は思いのほか高く、よく見れば「本」は「体」のなかに入っている。

本に体の痕跡を見て取ってしまうせいか、ある本を読んでいて、すでにその著者が亡くなっている場合、もうどこにもない体が残したものであること、残された言葉の痕跡に取り立てて不在を感じることがある。

『富士日記』を読み始めたとき、著者である武田百合子は既にその数十年前に亡くなっていた。『富士日記』の上、中、下とその他のエッセイを読んでしまい、あと残るは『犬が星見た』だけになったとき、これを読んでしまったら、もう読むことの出来るこの人の日記は尽きてしまうと思うと惜しくて、まだ読まずに取ってある。日付のある日記であるから尚更なのかも知れないけれど、日々が尽きてしまうということに、他にはない名残惜しさがあった。それで、どうにか終わらせないために、『富士日記』に描かれている山荘の生活のなかで執筆された武田泰淳の『富士』を読むことにした。その他にも、若い頃の武田百合子をモデルに書かれた『未来の淫女』という短編があることを知り、これは古書で値も張ったけれど、どうしても読みたくなって取り寄せた。

もし武田百合子が生きていたら『犬が星見た』を取っておくために『富士』や、買う予定だった新色のアイシャドウを諦めて『未来の淫女』を読む事はなかったかも知れない。待っていれば新刊を読めるのだから。でも迂回した道のりで、結果的にそれがあまりに豊穣な寄り道だったことはしばしばある。

そんなふうに自然とあらわれる読書導線に沿って本を選べる間は数冊渡り歩き、それがふと途切れたところで文庫本の棚の前を延々行ったり来たり、本屋に潜る機会が訪れる。本棚のどこかにあるはずの、明記されてはいない宛て先を感じ取るアンテナを立てて、四十五分が経過した。

本の中に織り込まれた見ることのできない風景の断片や、会うことのない人々の印象が、記憶の編目に残っている。そういう、イメージの痕跡を読後の体に残しつつ、日常を生きる密かな楽しみというものが、読むことの先にあることを知ったとき、私にとって読書は、娯楽とも勉学とも違う、体につながった行為と感じるようになった。

ようやく巡り会った次の一冊を携えて、本屋から這い出す。