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流出雑記 

嫁ぐ日

2009年11月20日 | Weblog
7時頃起床。3~4時間は眠れた。
母と真ん中の妹は行きつけの美容室で着付を頼んでいるので、私よりも早く起きてバタバタと家を出て行った。

母が小さいおにぎりを作ってくれ、それを二つとかぼちゃの煮たのを二切れ食べる。
式場入りは9時で、8時に家を出れば間に合う。それに今日は自分で化粧をしなくて良いから時間に余裕がある。
シートパックを顔に張りつけてぼーっとしていた。

下の妹は式場で振袖を着付てもらうので一緒に出発。
JRで京都駅、そこから乗り換えた地下鉄は思いっきり通勤ラッシュ。四方から黒いサラリーマンに圧迫されたすっぴんの私は、社会的に焦点のボケた存在のようだが今日花嫁だ。しかしそれを悟ってもらえる要素無し。

ダーリンは少し先に式場に着いていた。
支度部屋に入る。
担当の美容師はダーリンと顔見知りだった。以前彼が撮影のバイトをしていた結婚式場で何度か一緒になったという。赤い髪をタイトなおだんごに結った40代前半くらいの女性。一言でいうと、いかつい。
周りのスタッフにはなぜか「先生」と呼ばれている。

和室の支度部屋は建物の地下の一番奥にある。そこでひっそりと花嫁は作られる。事前に当日式場内で焚いてもらうよう頼んだ沈香が香っている。

髪に手際よくカーラーが巻かれ、顔がいつもより白く塗られていく。普段巻くことのない髪がくるんとなり、編んでまとめられ、その上からネットを被せると、控え室の歌舞伎役者のようになる。
次に細部の化粧に入る。
白い平坦な顔に眉や目が徐々に描かれ「今日の顔」があらわれる。
眉も目元も普段の私の化粧とは違うラインの引き方。姿見の向こうで仕上がっていくのを眺めていた。
「先生」は時々遠ざかって鋭い眼光で顔のバランスを見る。
目や頬に柔らかい桃色がふわりとのせられると、和装に似つかわしいような表情が自分の顔にあらわれた。装いによって自分のルーツが引き出されるという感覚。成人式の時はそんなふうに思わなかったのに。私に潜伏していたものとの邂逅はなかなか喜ばしいものだった。
そして鬘。
それなりに重いが、昔は今のものとは比べものにならない重さだったという。感極まると同時に花嫁は鬘の重量で終始俯いていたらしい。笄はあんみつ姫のようなシャラシャラした金色のものもあったが、鼈甲を選んだ。
施されていく特別な装いに中身も近寄せるようにびんつけ油の匂いを深く吸う。

白無垢の着付。
一枚着物を着せるごとに前合わせの重なりを整え、襟をぐっと引いてしっかりと貫く。
数本の腰紐で胴体が締めあげられ、体は布の重量を支えるただの芯のように感じられる。
『陰影礼賛』で常に着物を着ていた頃の女の体について書いているところを思い出していた。その部分を引いておく。

「私は母の顔と手の外、足だけはぼんやり覚えているが、胴体についての記憶がない。…それで想い出すのは、あの中宮寺の観世音の胴体であるが、あれこそ昔の日本の女の典型的な裸体像ではないか。あの紙のように薄い乳房の附いた、板のような平べったい胸…何の凹凸もない、真っ直ぐな背筋と腰と臀の線、そう云う胴の全体が顔や手足に比べると不釣合に痩せ細っていて、厚みがなく、肉体と云うよりもずんどうの棒のような感じがするが、昔の女の胴体は押しなべてああ云う風ではなかったのであろうか。…そして私はあれを見ると、人形の心棒を思い出すのである。事実、あの胴体は衣装を着けるための棒であって、それ以外の何物でもない。…闇の中に住む女たちにとっては、ほのじろい顔ひとつあれば、胴体は必要がなかったのだ。…極端に云えば、彼女たちには殆ど肉体がなかったのだと云っていい。」

「先生」は全身を使ってひとりで着付けていく。手馴れているが、ひとりでは大変そうな作業だった。私は棒として立ち、時々袂を持ち上げるくらいしか出来ることがない。

大差ないように見える白無垢も詳しく見るといろいろあり、高価なものは白い絹糸の刺繍柄で、金糸や赤が少し入っているものもある。柄は、咲き乱れる四季の花柄、御所車、夏なら流水に菖蒲の立ち柄もよかったが、正絹の艶やかな鶴の織地のものにした。裏地には花菱の柄が入っている。

白無垢に於いて熟考すべきは赤の量。
唇以外はすべて白か、小物や襟、袖、裾の縁の赤を入れるか、綿帽子を被るなら縁か内側に赤を入れるか…など。
このように花嫁はどんな装いにするかとあれこれ工夫の余地があるのに対し、花婿の紋付は3種類の袴の選択くらいしかない。着付けも10分程で済んでしまうので暇そうだ。

着付が終わり最後に紅を指し、綿帽子を被ると花嫁になった。
ずっしり重い。頭が動かし辛いので周りへの反応がどうしても鈍い。
ただ移動するにも数人の人の世話にならねばならない。 産まれたてのように、そこに居ること以外何も出来ないのであった。嫁ぐ日ばかりはそうしていることが、大いに許されているかのようだった。