goo blog サービス終了のお知らせ 

figromage

流出雑記 

2016/4/10

2016年04月11日 | Weblog
生まれた病院が更地になっていた。
子供の頃その前を車で通るたびに、ここ美佳の生まれた病院やでと言われた。中の様子はもちろん何一つ覚えていないし、妹たちは違う病院で生まれたから物心ついて以降足を踏み入れることはついに一度もないままだった。
調べると経営破綻。母は初産だから贅沢をしたと言っていた。その病院は入院中まるでホテル待遇で過ごせる贅沢な産婦人科だったらしく入院費が他と比べて高額で、少子化と不景気の煽りを受けてだめになったのだろう。
生まれた場所が消えたからと言って何かしら私に関する所在をなくしたわけでは当然ないのだけれど、美佳の生まれた病院、と言われその前を通るときにあった小さく誇らしいような心地を覚えている。わたしは!ここで!生まれたのだ!という。大人になってからも時々病院の前を通ることがあるとその名残りを感じた。
ただ自分の生まれた病院が更地になっていた、という事実は何ら私を更新しないのだけれど、この言葉をかみしめていると事実とは関係のない味が染み出してきて、それを煮詰めようと画策し、そのことを考えながらりんごを2個ジャムにした。

2016/4/9

2016年04月09日 | Weblog
仕事で神戸まで出てきたのでファッション美術館でBOROの美学展を見た。

まず入り口付近にあった襤褸を着せた子供のマネキンの髪をボサボサにして顔に汚しをかけているのはもう布地そのものよりその様相から別のイメージばかりが押し出されてきて、目の前のディテールが何も見えないので止せばいいのにと思った。

展示はデザイナーによるこれまでのコレクション制作過程で出た端切れをつなぎ合わせて新たに仕立てた服、布以外のものフローリング材の切れ端で作ったカバン、シートベルトで作ったカバンなど。福祉施設で縫うをテーマに制作されたプロジェクトの作品など。そして大正、昭和20~30年代青森で実際着られていた襤褸もたくさん展示されている。
藍で染まった麻布の折り重なったつぎはぎ。肌の当たる襟元や手でよく触る胸前は擦り切れていたりする。
寄せ集め、継いでつないで過酷な環境を生き延びてきた人の執念と、生まれ落ちた境遇を生きざるを得ない諦念が重なり合って縫い込まれているようだった。服というよりとにかく衣食住のひとつの、衣、であること。体を覆うものであるのに、まるですべてがさらけ出されて見える。それは寒冷地で綿花が育たない事情から麻布が主でそれを藍で染める、素材に土地柄が反映され、更に継ぎ目の跡に含まれる、余分にはない、ということが表明されたその衣服の生いたちが着る体の手によるものであるためか。
ただその貧しさというのは決して単なる貧相なものではなく、端切れが重なる厚みをもった力強さがある。これでもかと継ぎに継がれた重たそうな布団のなかで継がれてきた命なのだと思うと少し納得がいく。
きっと実際に展示されている襤褸に袖を通していた人からすれば、やめてくれと言いたいようなものなのだろうけど。

けれど寄ってみると細かなこぎん刺しの菱模様がびっしり縫い込まれていたりする。規則的に並ぶ菱形が連なって幾何学模様を描いている。
そこには密かな愉悦が見てとれる。なぜこのような手の込んだ仕事がなされたのかを考えると。
刺繍や編み物のように規則的に針を刺す単純作業をしていると我を忘れるような時間が来る。刺す人は夜なべして薄暗い部屋でこの模様をひと針ひと針刺したのだろう。その時間にはきっと、とても個人的な感覚があったに違いない。プライベートなどない時代の生活に、この作業の内にひととき籠もることは許された喜びとして受けがれた側面もあるように思う。そしてその布地は家族の誰かに身に付けられ、模様は魔除けでもあったりする。冥想と祈りのような時間の存在を痕跡から感じる。

継いだ柄の着物はどんなものも一着しかない誂えものと言え、全国どこでも同じものが買え、S M L に体の方を近寄せ、着ては捨てるサイクルにのまれて服を選んでいる現在の着ることの気軽と気楽。どちらが本質的に貧しいかと問われると即答できない。

2016/4/1

2016年04月02日 | Weblog

4月のはじまりはほぼ一日中桜を濡らす雨だった。散らさないくらいの。

ばらの発育、日に日に葉数をふやしている。ただモッコウバラだけが裸のまま沈黙している。毎年最初に咲くのはモッコウバラだけれど、今年は芽の膨らみすらまだない。去年どうだったか読み返すと4月23日には咲いている。今から急に育ち始めるとは思えない。もしかすると、特に発育が早い品種だから狭い植木鉢のなかで根詰まりをおこしたのかも知れない。他のばらより手はかからないけれど、同じように水や肥料をあげていたのに。このモッコウバラは黄色なのだけれど、黄色という色をあまり好きではないなと植えた後に気付いて、その心境を悟られたのではないかともちょっと思う。4月末まで様子を見る。

詩について詩人とやりとりをしていたら書いたものを読んで、日常、時代、自己を生きながら内部に降り積もった「認識」のツブや思想が詩を書かせている、と言われそうなのかと思った。そういう言葉で縁取られるとき、症状や手相を見られているような感じがする。
けれどやっぱり読み手の入る隙というか、そういう部分をもう少し作った方がいいと。作っているつもりだけれど足りない。たぶん想定している他者の幅が狭いのだ。
 
やや逸れるが誰にでも平等に接するようにと言い出したのは誰だろう。そんなこと不可能だ。人と会って話すときに自分の反応や振舞いは相手からすべて引き出されてしまうものと感じるからで、それが同じであるはずがない。そして人といることはその鏡像関係が何よりおもしろく、映ったり写ったりする時間を過ごすことが人といる意義だと思う。そういうふうに人といようとしてしまう。小さい頃からそうだった。人数の多いところで会話することは、同じく人といることでもまったく違う。特にそれが他愛のない会話だと、みんな話すのだから自分が発言する必要がないと思ってしまう。かつ誰の何を反射させていいのかわからなくなり間に合わず口数が減る。でも楽しくない訳じゃないので雰囲気を悪くしないため、それなりに適当なことを言ってみたり、場にいる術も歳と共に多少は身に付いた。そういうときの会話は会話というよりひたすらの相づちのようになる。言葉を失わずにいられるのはふたりで話すか、ひとりで言葉を書くときで、この感覚は書くものにも反映されてしまうのだろうと思う。でも書き言葉だとそれを崩すことができる。一語一語点検ができるから。時々文章がうまいと言われることがあるとそれは散々点検してほどいてるゆとり分があるからだと思う。私にとってやる必要のあることだ。

 


2016/3/29

2016年03月29日 | Weblog

今日いいことを思いついた。今後プロフィールにゴーストライターと名乗るのを追加しようと思う。

ゴーストライター、なぜゴーストが付いてあるいは憑いているのか。半年くらい前に自分に付けたもうひとつの名前がある。何か書くときに使う名前を付けた。最初は詩やフィクションを書くときに実名を使う気恥ずかしさから、ただ単に実名からの距離がほしかっただけだった。誰も知らない文字通り字面だけのその名前を書いてひそかに公募に出したりしていた。それでたまたま詩があるところで一席を取ってしまい、その名前が印字された封書が届き、表彰式に出席し、その名で呼ばれ表彰された。その一連の出来事は、偽物がまんまと舞台にあがってしまっているような感覚があって、何食わぬ顔で呼ばれたことのない名前が公然のものになっていることがおもしろくて仕方なかった。その二重状態に味をしめ、じゃあもっとその架空の名前の人物の方を立体的にすることに実名の持ち物をつぎ込んでみたいと思い始めたのだった。欲望の矛先がはっきり見えてくると物事もそのように進んでくる。春から定期的に寄稿する機会をもらったりし始めた。

架空の名前の人に言葉を、内容を渡し尽くして本体は形骸化すればいい。形骸化欲。形ばかりのものに、むしろ望みは最初からたぶんそこにあって、形だけ残っていればいいというか、いや、どうしたって残るものだから、表現出来るものは言葉で全部出し尽くし、それくらい軽量化して歩くところからやるくらいのことをしたい。そうしないと自分がダンサーと名乗ることはもうどうしてもそぐわないように思う。言い過ぎだろうか。そのためにはまず死ぬ気でゴーストライターにならなければならない。死ぬ気でゴーストライターに、これは単にこのフレーズが言いたいだけです。