Radio workshop & everyday.

自灯明法灯明

「自らを灯(ともしび)とし、拠り所として、他を灯とすることなかれ。」

ある男の思い出

2008年01月23日 | 日記
これも私が幼い頃の、ある男の思い出話である。
彼は私が物心付いた時には既に、私達のの一員であった。
しかし彼がどこから来たのか、どの様な生い立ちなのは誰も知らなかった。
彼は少し知恵遅れの様で、私達悪がきは、いつも見かけると○×○×と呼び馬鹿にしていた、やはり分かるのか、凄いけんまくで追われた事も有った。
日々の暮らしは村人の農作業の手伝いをして食べる物を分けて貰い生活をしていた。
大根おろしをおかずにして、美味しそうに
食べていたのを今でも覚えている。
温和でまじめに仕事をするので、村人の一人が住む小屋を作ってやっていて、そこに住んでいた。
如何に温和で真面目でも、さすがに嫁の世話迄は出来なかったようである。

その後私は郷里を離れたので、彼がその後
どうなったのかは知らない。


なぜに神はこれ程迄にこの家族を不幸に貶めたのか

2008年01月23日 | 日記
これは私の近所の幼馴染とその家族のお話です。
戦後直ぐ第一次ベビーブームの世代に生まれ、その家族は男二人と女一人の三人兄弟上の二人は私の上の兄弟と同じ歳で下の女の子は私より生まれは余り変わらないが、一つしたの学年である。
その家は雑貨やを営み、母親は男勝りの性格で町内の婦人部の会長など歴任し、誰もが褒める人柄でした、それに対し父親は
おとなしく温和な性格で仕事に励み真っ正直な性格そのものでした。
しかし時は過ぎて二番目の子が公金横領事件を起こし勤め先を首に成ったのを皮切りに、母親はどうしてそうなったのかは知る由も無いが、歩けなくなり、目も見えなくなり長患いの末に亡なってしまった。
女の子は私が帰省の折彼女が結婚したことを聞いた、そしてその後何年くらいかは覚えていないが、彼女のご主人が若くして亡なられたことを人づてに聞いた。
そして、父親も亡くなり長男は縁遠く、結婚せずに今も崩れかけた家で一人今も暮らしている。

私はこの様な不幸が続いた家族を未だかって聞いたことが無い。


袖すり合うも他生の縁

2008年01月22日 | 日記
今日無線機が壊れ、直しきれなくて、お店に修理依頼に行った。
受付の方が親しげに話しかけられ、ムム?
私の住所の辺りを良く知っておられたからの様です。
少し暇な時間帯だったようでハム(食べるハムとは違うでござるよ)談議に花を咲かせ、年恰好が似ているようで、似たような時代を過ごされ近年携帯やnetの普及と共にハム人口が減少したことをお互いに嘆くことしきりでした。

お祓い

2008年01月21日 | 日記
今日兄貴の病気が完治したので尺間嶽神社へお礼参りに行きました。
リンパ球の癌で全身のリンパ球の癌についての抗がん剤の投与で髪の毛は抜け、痩せ細り、薬が効かなければ後六ヶ月の命と宣告されていた、でも一生懸命、病気と闘い再び命を貰えることが出来ました。

年齢も高齢であり予断を許さない時が幾度か有りましたが、それもくぐり抜け今日の喜びの日を迎えることが出来ました。
本人の生きる意志、薬、医師の治療方針、
お祓い、私は全てが旨く作用したと思っております。
お祓いを信じる信じないは念頭に無く、
ただ、兄の苦しみを少しでも少なくしようと私は藁をもつかむ思いでお祓いを頼みに行きました。


退院しました

2008年01月19日 | 日記
下剤と断食と検査手術の、辛い時が過ぎ今日の午後退院しました。
たった一泊二日の入院でしたが、空腹のため朝早く目が覚め、病室からの日の出は暗いコバルトブルーと朝日の光のコントラストが美しく映え、心に残りました。

最終的には、発見後から半年強過ぎていたので、組織検査の結果待ちです。