坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

座から問われる

2014年07月02日 | 坊主の家計簿
 『ブットンくんぬりえ』という素敵なものと一緒に帰敬式の冊子が送られて来た。

【せっかく人間に生まれてきたのです。ただ自分の思いだけに生きて夢幻のごとく老い死んでいくのではなく、仏・法・僧に帰依し聞法していくことによって、自我の妄執に縛られ振り廻されていることに目覚め、思いを転じて、量りなきいのちと光の世界へ生まれ変わっていく、明るく生き生きとした人生への入門式である「帰敬式」を、できるだけ早く受式されますようお勧めいたします。】(冊子より。藤井善隆先生)

 仏弟子としての名告り。
 単なる「私は南無阿弥陀仏に帰依します」だけでも構わないが、あとは業だと思う。私には「南無阿弥陀佛に帰依します」だけでは弱かった。それが故に得度し、僧侶になった。当時よく思い出していた言葉は長州力の「誰か俺を縛ってくれ!」だった。そして僧侶という名告りを上げる、社会的身体として周囲からも『僧侶』として見なされる。「あんた坊さんやねんからもっとしっかりせなアカンで」と。そういう時に「いや、真宗は僧侶も門徒も同じですから」というのは逃げであって、あくまでも自分が名告った、自分自身が座っている座から問われる。

 念仏は学業ではない。だが、多く学んで居られる方々を見ると、当然それは社会的な仕事としての側面もあるのだろうが、「この人はどこまで深い業があるのだろうか?」と感じてしまう。それが故に教えを聞かざる学ばざるを得ないのだろう。

 今の私は住職である。住職修習の時にうろ覚えだったが反芻していた言葉は

【我々は寺の住職というわけですが、その住職は正覚阿弥陀法王の善力住持というところからくるわけです。すなわち住持職です。よく大衆を住持することのできる者のことで、これは阿弥陀如来のことです。だから、我々が住職を名告るとか呼ばれるとかいうことは実は値しないものが、その名を名告りその名で呼ばれるということで、そこには深い懺悔があることです。】(竹中智秀先生『いのちの願いに聞く七章』142ページより)

 である。

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