坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

穢れを祓う儀式

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
社会運動だって穢れを祓う儀式にしてしまう。デモや集会に参加する事で穢れを祓い「私達は清浄、あの人達は穢れが多い」と。

それは当然社会運動だけでなく、教えを聞く事が穢れを祓い儀式になっていたり、沢山勉強する事が穢れを祓い儀式になっていたり。

わかりやすいのは仕事かな?有能で仕事がバリバリ出来て穢れを祓い儀式がちゃんと出来ている人と、「ニート」「ホームレス」と呼ばれる人達など。後者は社会問題になる。まあ、本人が嫌がっていたら別だけど、なぜ無条件に「気の毒」と思われなければならないのか?単に生きているだけで「かわいそうに…」と涙目で言われないといけないのか?

穢れを祓えども祓えども、「清浄になりたい!」という穢れがまとわりつくだけ。

「俺たち最高!」

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
排他的、つまり「俺たち最高!」という集団であるのかどうか?というのが、カルトであるのかないのか?の違いだと思ったりする。まあ、どんな教えであっても、自分自身の信仰姿勢が問われて来る。

大谷派視点からすると他の教団は変であり、他宗はもっと変であり、他の宗教はもっともっと変である。
当たり前である。自分の視点、色眼鏡で見ているのだから。

その色眼鏡を問わずに「俺たち最高!」と、必ず思ってしまうのが「悲しいけど、私達なんですよ」と。

あ、昨日の「仏青みたいなもの」の所感。

七夕

2014年07月07日 | 坊主の家計簿
七夕の願い事って、基本は「思い通りに生きたい」ということだと思う。それだけ、思い通りに生きれていない現実がある。

人間といっても、その場その場の弾みで生きている。その弾みの結果が自分が思っている事とは全然違った現実が待っている。

「思い通りに生きたい」というのは、その迷いを深めるだけやけど、その底には「私を認めて欲しい」→「私が納得出来る私になれますように」と。

世間の価値観に縛られている中で呻く。世間に認められるような私なら引き受け、認められない私なら捨てる。そうやって、迷いを深める。
だから、阿弥陀さんは「えらばす、きらわず、みすてず」と。どんな私であっても決して見捨てない。それは裁く自我を否定するから。

「いい一年だった」「悪い一年だった」、「良い人」「悪い人」などと決められるわけがない。誰に決めつけられるワケもない。それも思いでしかない。

竹中先生は「阿弥陀さんの本願といっても、それは『みんなと一緒に生きたい』という事ですよ」と。

自我を超えて、どんな自他であろうとも、決して、えらばす・きらわず・みすてず、の生き方。
解放への道。