坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

狐野秀存先生・2014年3月19日大谷専修学院卒業式院長告辞。願生158号より

2014年06月16日 | 坊主の家計簿
【いよいよ出発です。娑婆世間のまっただ中に、本当に自分自身を大切にして、縁ある人との出会いを大切にして、浄土を映し出す新しい学院作りへの出発です。
 この一年間、毎日みなさんを出迎え、見送った、学舎の玄関に掲げてある竹中智秀先生の言葉に、黒田進先生の言葉を添えて、改めてみなさんへの餞の言葉とします。

  如来の摂取不捨(えらばず、きらわず、見すてず)の心を学び、真実、自分自身のしたいこと、しなければならないこと、できることを、他人とくらべず、あせらず、あきらめず、ていねいな生活をしていこう。

 一年の間、ご苦労さまでした。ありがとうございました。】
(狐野秀存先生・2014年3月19日大谷専修学院卒業式院長告辞。願生158号より)

『寺よ、変わるな!』

2014年06月16日 | 坊主の家計簿
長野県松本市・神宮寺住職の高橋卓志氏が書いた『寺よ、変われ』(岩波新書)に喧嘩売ってそうなタイトルの彼岸寺・松本氏の『寺よ、変わるな!』(笑)
http://www.higan.net/ebn/2014/06/post-13.html

 先日、「寺に若い人が来ない」という事を話しておられた方がいて、その内容が安っぽかったので、「ほんなもん、来んでもええわ」と。あ、売られた喧嘩はあっさりと買います、私。聞き飽きた内容で何ら目新しい視点もなく「寺に若い人が来ない」という批判に対して、うちの門徒さん以外の下らない意見には耳を貸さないどころか、「こんでもエエ」とアッサリと言います。

 当然、若い人が来やすいような働きかけをするのも当然アリであって、私だって、寺の若い人が来やすい『仏青みたいなもん』に通っていたし、今も通っているわけだし。だけど、それを条件にして「そういう事をしなければならない」なんぞと、「お前、単に伝統仏教に文句いいたいだけやろ」に耳を傾けるほどヒマでもないし、人格者でもない。やりたい人がやれば良いだけの話であって、それだけの話。

 寺が敬老会になっているなら、それはかなり素敵な事だし、御参り坊主が世間話の相手になっているなら、それも素敵な話。

 うちは毎月の例会はやっていない。それはうちの寺の事情があっての事であって、そんな様々な寺の事情も知らずに単に文句言いたいだけの人から、他の事に対する愚痴なら無関係なので聞くが、直接関係している事に対して聞くわけがない。つか、「色んな事情を無視して理想で現実を裁くな」でんな。

1分間700円

2014年06月16日 | 坊主の家計簿
夕寝に失敗して頭が痛くまだ起きてたりして。
別に何をしていたワケでもなく、ただひたすらボーっと。ああ、「寝る時は寝る」「起きてる時間は有効的に使う」という人が純粋に羨ましく思ったりするのだが、別にコンプレックスではなかったりする。単に「ああ、世間で出世しはるんやろなぁ」と。実際にそれだけの事をしてはるし。

世間で出世すると、きっとラーメン屋で私が無視しているチャーシュー麺なんぞを食べれたりするのだろう。煮卵もトッピング出来るかも知れない。ひょっとして横綱以外、つまり、ネギの大盛り有料の店でネギのトッピングも出来るのが人生の成功者なんだろう…。うぅ…。

30代ぐらいまではこんな時に「友がみな我よりえらく見える日は」なんぞという言葉を思い返していたような気がするが、最近は面倒やのぉ…。別にコンプレックスがなくなったわけでも、煩悩がなくなったワケでもなく、単に、なんちゅうんですか?「面倒」というか、「疲れた」というか。まあ、引き篭もっているわけでんな。恩師曰く「煩悩不足」の状態か。決して健康的な状態ではない。妬み恨み嫉みが薄らいで来ている、非常に不健康な状態。まあ、疲れています。

先日たまたま再放送していた、探偵濱マイクの「1分間700円」。何度目かやけど、やっぱりええわ。

浅野忠信演じる殺し屋。子どもの頃にお爺ちゃん(叔父さん?)を殺したと思い込んでいて、神父に救いを求める。いや、厳密にいうと、母親と性的関係があったお爺ちゃん(叔父さん?)を殺したと思い込んでいる事に対する罪意識ではなく、放火した時に文鳥を殺してしまった事に対する懺悔を神父に。
神父は「その胸の痛みが神様が一緒に苦しんでいる証なのだよ」的な。
その後、子どもと生きて行く為に5000円で売春していた母親を殺し屋は子ども時代に殺してしまう。
殺し屋になったという噂を聞いた神父は末期ガン。自分を殺す依頼をしたくて、濱マイクに浅野忠信演じる殺し屋を探して貰う。

殺し屋はすぐに殺さない。ロシアンルーレットをする。時には自分のこめかみに銃口を当てて、自分から多くは4回も撃つ。で、相手に渡す。単なる殺し屋ではなく、その「死ななかったこと」=「神様に許された」と。そこでしか生きる充実感を得られない殺し屋。人を殺す度に街角の証明写真ボックスに入って「神様、僕はまだ許されているのでしょうか?今日も知らない人を殺してしまいました」などといいながら証明写真を撮る。証明写真ボックスが懺悔室。

末期ガンの神父。自分の死が間近になってか、大昔に赴任していた教会で、当時は子どもだった殺し屋に対して言いたかった事をようやく言える機会がやって来る。
「君は自分の意思で産まれて来て、自分の意思で生きているんだ」と。
誰かに許されて、神様に許されて認められているから産まれて来たワケでもなく、生きているワケでもない。あくまでも「自分の意思で生きているんだ!」と。

なんじゃかんじゃで神父は死ぬ。殺し屋の銃で自ら銃口を自分に当てる形、でも、身体や銃は殺し屋に持たせたままで、自分で引金を弾いて死ぬ。

殺し屋はいつも通りに証明写真ボックス。でも、ロシアンルーレットをしようとしたのか、自殺しようとしたのか知らないが、引金を弾いた瞬間、逃げる。銃声と共に、叫びながら逃げ出す。初めての、「生」。「生きている」という事に対する執着・恐怖。

映画「ベルリン天使の詩」では、恋をした天使が天使を辞めて人間になり露天でコーヒー買う。そして「暖かい」と。寒さも、寒さの中のコーヒーの暖かさを知らなくて、天使を辞めて初めて知った「暖かい」。

うん。疲れている。やっぱり何も出来ないこういうダラけた状態の時には「友がみな我よりえらく見える日は」なんぞと思って「なんで俺は…」というのが健康的なんだろうが、まあ、それはそれで逆優生思想なんだが、やっぱりピチピチとした煩悩に憧れる。まあ、これもまた煩悩なんだが、こういう煩悩が出て来て、こうやってFacebookで落書きして遊べるぐらいにまでは快復して、そして「そろそろ寝な明日ヤバイわなぁ…」と思えるようになって来たので、寝る。

弱者を盾にする

2014年06月11日 | 坊主の家計簿
 弱者を盾にする。

 まあ、ここしばらくの間にどこかの小中学生が「いじめが原因と推定される自殺」をすれば、反対の世論なんか吹っ飛ぶんだろうが、それでも徹底して反対やな。
 いじめっ子が居ようが、暴れて授業潰すヤツが居ようが、教師に殴り掛かるヤツが居ようが、クラスから追い出すな。大人が責任をもって、しばけ。体育教師、サボるなボケ。

 話し合いだの、個の尊重だのは教師のレベルにも関わって来る話であって、当然理想だが、理想が無理ならシバクしかない。追い出すより、100億兆倍素晴らしい、つか、全く方向性が違うわ。
 
 橋下市長の言葉が非常に面白いのだが、頭痛いので、あとで。

【橋下徹大阪市長:「問題のある生徒の行為によって、まじめにやろうとしている生徒がばかを見てはならない」】
http://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000028530.html

「悪いことをすれば学校が隔離するぞ!」

2014年06月11日 | 坊主の家計簿
【精神病理学が専門の評論家野田正彰さんの話 「問題児は頑張らないから悪い」という従来の橋下徹大阪市長の発想にも沿っている。制度が機能するかどうかという以前に、どの生徒や児童が問題なのか、どこで線引きするのか。そうでない者までもが学校の判断で恣意(しい)的に排除されてしまうという危険性がある。悪いことをすれば学校が隔離するぞと脅して解決を図るような方法では、子どもに余計な負荷がかかるだけだ。逆効果だと思う。】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2014061102000121.html

子ども同士の力

2014年06月11日 | 坊主の家計簿
【大阪教育大学の島 善信特任教授は「別な所(個別指導教室)に行くというのは、その学校から切り離すということに、結果的にはなってしまうんじゃないかということで。子どもが変わるのは、自分がいてる隣の子の支えだと思います。子ども同士の力を、どうつなぎとめるかという、そういう努力を重ねることと」と話した。】
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/fnn?a=20140611-00000340-fnn-soci

「日本の教育は終わりだと思う」(尾木ママ)

2014年06月11日 | 坊主の家計簿
記事を書いている人は論外として、尾木ママのこの発言は評価する。影響力のある人だし、桜宮高校体罰処分事件で橋下側についたが、さすがに今回は別か。

【教育評論家の尾木直樹は「他の子どもの学習権を守るため、問題のある子供を排除したいのが本音でしょう。日本の教育は終わりだと思う」という。】
http://www.j-cast.com/tv/2014/06/11207291.html?p=all

内なる優生思想

2014年06月10日 | 坊主の家計簿
念仏集団が発祥の青い芝らしい発想やね、内なる優生思想。

【内なる優生思想とは、以前からある「優生政策=外なる優生思想」に対する新しい優生思想である。「現代の優生思想は我々一人一人の内部に深く染み込み、潜んでいる。」これを内なる優生思想というのだ。】
http://s.ameblo.jp/umaerworld/entry-11493405179.html

優しさという排除

2014年06月10日 | 坊主の家計簿
養護学校より養護学級。養護学級より普通学級。確か、そんなノリ(軽くて失敬)があったはず。
牧口一二やったけな?中学校に講演に来て「なんで講堂に集まって話きかなあかんねん」と思いつつ、かなり面白かって、うちの中学で一番の厄介者も、大ウケしてて、牧口一二が松葉杖を上げるモノマネをしてたぐらい。多分、障害者解放運動の熱に、人間解放運動の熱に触れて、彼なりの感動があったのだろう。

障害者解放運動の反対は優性思想。そして、障害者解放運動も生身の人間がやることだから、当然、優性思想が混じりこむ。だって、人間存在=優性思想を求めざるを得ない煩悩を抱えているわけだし。何か特別な存在になりたい。他人とは違った私で居たい。差別したい、見下したい。

何を書こうとしているのかハッキリしないまま、iPhoneで遊んでいるのだが、優しさ。「困っている人を助ける私って、優しいでしょ?」と。
んなもんは、感じて当然だし、その事に対して「私はなんていう酷い事を思ってしまったのだろうか…」と思うだけにはホルモン中年は飽きて慣れっこになってしまって、「またまたそうやって優しく成ろうとする」と。

大阪での学校から厄介者を追っ払う動き。当然、前から停学だの退学だの、腐ったみかんだの、「まさる!」だの、シュプレヒコールの波♩はあったが、なんだかなぁ…。

大阪は別に維新の会がおかしくしたわけでなく、天王寺公園に柵を作ってホールレス状態の人が寝れないようにしたり、屋台を追い出したり。道頓堀のたこ焼きは確か平松時代。そんな流れ。

維新の会に全ての罪を被せて「維新が悪い!橋下が悪い!」って、呑気な話でしかなかったりする。

桜宮高校の体罰事件の時に加入したメーリングリストでは、当然、今回の動きには反対。つか、体罰事件の時も、圧倒的多くの「桜宮高校を潰せ!」の声に反対したとこだし。「学校をそのままにしておいて下さい」と泣いて訴える生徒の声を「カルトみたい」と言った人たちもいたが、いや、お前らもカルトや。

さっきも書いたが、散々暴れまくったので、散々殴られたが、殴られて嬉しい思い出の体罰と、今だに「あったら殺す」の体罰もあるわけであって。

優しさで包まれた世界には、優しくない人には居場所がない。ボランティアが内申書云々の話が結構前にあったが、どうやっているのかな?高校からバイトで忙しかったり、あるいは興味がない、遊びたい、ダラダラしたい、などの理由でボランティア活動をした人と、しない人が内申書で違って来る。あ、「勉強」を忘れてた(笑)

なんか、イヤな流れだね。

行政って、出来るだけ、中立であって貰いたい。
在特会に関して「京都で判決が出たから」「国連が」云々は、在特会という厄介者を排除する動き。それより、当初から心配(というかワクワク)していたように、今は「しばき隊」などのカウンターの方が強い。当然、しばき隊の中にも「在特会をイジメに行こう」という暴力性があって当然。だって、それが運動なんだし。別に聖人君子がやっているわけでもない。井筒が在特会とカウンターを現代のパッチギで映画化するような話。

授業の機会を奪われる人権と、授業を邪魔して追い出される事に対する人権。

彫刻刀や椅子を持って暴れる人間を同じクラスメイトが抑えられるわけがなく、大人の教師が殴れ。刺股とか使わずに、手で殴れ。殴って、同じクラスメイトとして向かい入れろ。クラスから排除するより、百億万兆倍ええ話の美談や。

が、桜宮高校体罰事件と同じく、多くの心優しい優性思想家、「ほほほほ!私は貴方たち普通の人間とは違うのザマス」でなくとも、所詮、ちんこまんこが擦れてアンアンウンウンいって産まれて来たにも関わらず、ちんこまんこを舐めた口で何を綺麗事ヌカしてやがる。

ほれ、心優しい反戦運動の人が大好きな

【ナチ党が共産主義を攻撃したとき、彼は多少不安だったが、共産主義者でなかったから何もしなかった
ついでナチ党は社会主義者を攻撃した。彼は前よりも不安だったが、社会主義者ではなかったから何もしなかった
ついで学校が、新聞が、ユダヤ人等々が攻撃された。彼はずっと不安だったが、まだ何もしなかった
ナチ党はついに教会を攻撃した。彼は牧師だったから行動した―しかし、それは遅すぎた】
(『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』)

在特会は在特会だけの問題ではない。今の世の中の共業やろ。

なんとなく、タイトルつけたし、明日にでもブログにアップしよ。

http://jacklog.doorblog.jp/archives/39265478.html

首が飛ぶ念仏

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
【つまり、だれのものでもない、何かのためのものでもない、比較する必要もないいのちそのものの尊厳性を明らかにすることは、ひとつの宗派的なイデオロギーではなくて、私たち人類の普遍的な課題である。それが、法然、そして、親鸞によって明らかにされた念仏の教えではないか。そういったいのちを解放する念仏の教えに生きて、いのちを差別し支配する時代社会の真只中、その念仏を突き出したために、死罪を伴う宗教弾圧を被ったのが念仏の歴史である。】
(尾畑文正『親鸞への旅』99頁より)

【その意味では、『歎異抄』を学ぶとは、差別的な抑圧的な時代社会を根底からゆるがすようないのちの尊厳性をうたいあげる念仏の衝撃に身を据えるということである。単なる信仰問答書として、こころの平安を求めたり、わが身一人の安泰を祈る教えではないであろう。】
(尾畑文正『親鸞への旅』100頁より)

和田稠『尊い犠牲忘れずに』

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
【私の中で個人としての戦争責任が立体的な意識としてはっきりしにくいという理由は、個以前の問題として個の存在自体をツミとしてきた民族の歴史的体質にあったのです。今にして思えば「東条にだまされていたんだ」と罵りやまなかったあの艀の船頭さんも、東条の責任を糾弾するというかたちでしか、そのだましに同調した自分自身の体質に対する鬱憤を吐き出す術がみつからなかったのではないかと思われてくるのですが、いかがなものでしょうか。
 私たち日本人にとっては、個人としての戦争責任をただちに追求するというやり方でもって、責任の自覚に到達するということは容易なことではありません。責任とは主体的な個について問われるものでしょう。はじめから個が排除されているところに責任の問いようがないのです。だから私たち日本人は自己の責任を追求されるときには、きまって「私だけではない、みんなの責任だ」といって全体のところへ責任を持ってゆくか、または自殺(滅私)というかたちで、自己の存在自体を無くす方法でしか、責任のとりかたを見つけだすことができぬのですね。個の責任を論ずる一歩手前で何よりも先に主体的な個の確立が先決なのです。】(和田稠『尊い犠牲忘れずに』より)

オメラス

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
オメラスって知っているか?ある小説に出てくる理想郷のことだ。
 オメラスは自然に恵まれ、独裁者もいなければ身分制度もない。誰もが何不自由なく暮らしている幸せな町だ。
 ところが、その街のどこかに、光の届かない固く閉ざされた地下室があった。
 まるで下水道のようなその地下室に、1人の子どもがずっと閉じ込められている。
 その子は、ロクな食べ物も与えられず、身体は汚物にまみれ、ずっと惨めな生活を送っている。
 実は、その子の存在をオメラスの住人たちは全員知っていた。だが、誰も助けようとはしなかった。
 なぜなら、その子を閉じ込めておくことが、理想郷が保たれる条件だったからだ。
 オメラスの全ての幸せや美しい自然は、その子の犠牲の上に保たれているとみんなが理解していた。
 たった1人の子どもを地下室に閉じ込めておくことで、他の全ての人々が幸せに暮らせるならと、住人たちは見て見ぬ振りをしているんだ。
(テレビドラマ『MOZU』第九話より)

梅雨入り

2014年06月04日 | 坊主の家計簿
♪ハッピーバースデーツーユー


【「私は生まれたくて生まれてきたのではない」と言う人がいますが、「私は」ということではその通りです。生まれてくるのは、いわば「いのちそのもの」であって、そのいのちの上に少しずつ、私(自我)が確かなものになっていくのに、いつの間にか「私のいのち」と、「考える私」が中心になってしまい、私がいのちを支配しているとの錯覚をもつようになってしまうようです。】(真城義麿)


ああ、梅雨、鬱陶しいぜ…。

無為の日と無二の日

2014年06月02日 | 坊主の家計簿
6月1日は無為の日としてニートの祝日にすればよいと思いませんかその日はニートの...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11108135611


という事で、昨日、6月1日は無為の日だったらしい。
そして、今日6月2日は無二の日である。

今日は歎異抄のグループ学習。あ、遅刻するけど。
「みみのそこに残る」云々。

後生の一大事。
んと、かれこれ色んな本を読んだり、色んな話を聞かせて頂いたけど、それらが毛穴から染み込んだ事もあり、そういう場に身を置いていたが故なんだが、憶えている言葉は少なかったりする。でも、求めている時に飛び込んで来る言葉って、本当に光り輝いている。

真宗を学び始めた最初の頃に「三願転入なんか憶えても仕方ねーじゃん」という先生がいてたりして、未だに憶えてなかったりする。教学用語、むっちゃ苦手です。頭が拒否する。でも、「あなたは無二の存在なんですよ」的な、「あなたはあなたになればいい。あなたはあなたで在ればいい」(渡辺尚子)という言葉だけは、忘れられない。