坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

首が飛ぶ念仏

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
【つまり、だれのものでもない、何かのためのものでもない、比較する必要もないいのちそのものの尊厳性を明らかにすることは、ひとつの宗派的なイデオロギーではなくて、私たち人類の普遍的な課題である。それが、法然、そして、親鸞によって明らかにされた念仏の教えではないか。そういったいのちを解放する念仏の教えに生きて、いのちを差別し支配する時代社会の真只中、その念仏を突き出したために、死罪を伴う宗教弾圧を被ったのが念仏の歴史である。】
(尾畑文正『親鸞への旅』99頁より)

【その意味では、『歎異抄』を学ぶとは、差別的な抑圧的な時代社会を根底からゆるがすようないのちの尊厳性をうたいあげる念仏の衝撃に身を据えるということである。単なる信仰問答書として、こころの平安を求めたり、わが身一人の安泰を祈る教えではないであろう。】
(尾畑文正『親鸞への旅』100頁より)

和田稠『尊い犠牲忘れずに』

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
【私の中で個人としての戦争責任が立体的な意識としてはっきりしにくいという理由は、個以前の問題として個の存在自体をツミとしてきた民族の歴史的体質にあったのです。今にして思えば「東条にだまされていたんだ」と罵りやまなかったあの艀の船頭さんも、東条の責任を糾弾するというかたちでしか、そのだましに同調した自分自身の体質に対する鬱憤を吐き出す術がみつからなかったのではないかと思われてくるのですが、いかがなものでしょうか。
 私たち日本人にとっては、個人としての戦争責任をただちに追求するというやり方でもって、責任の自覚に到達するということは容易なことではありません。責任とは主体的な個について問われるものでしょう。はじめから個が排除されているところに責任の問いようがないのです。だから私たち日本人は自己の責任を追求されるときには、きまって「私だけではない、みんなの責任だ」といって全体のところへ責任を持ってゆくか、または自殺(滅私)というかたちで、自己の存在自体を無くす方法でしか、責任のとりかたを見つけだすことができぬのですね。個の責任を論ずる一歩手前で何よりも先に主体的な個の確立が先決なのです。】(和田稠『尊い犠牲忘れずに』より)

オメラス

2014年06月06日 | 坊主の家計簿
オメラスって知っているか?ある小説に出てくる理想郷のことだ。
 オメラスは自然に恵まれ、独裁者もいなければ身分制度もない。誰もが何不自由なく暮らしている幸せな町だ。
 ところが、その街のどこかに、光の届かない固く閉ざされた地下室があった。
 まるで下水道のようなその地下室に、1人の子どもがずっと閉じ込められている。
 その子は、ロクな食べ物も与えられず、身体は汚物にまみれ、ずっと惨めな生活を送っている。
 実は、その子の存在をオメラスの住人たちは全員知っていた。だが、誰も助けようとはしなかった。
 なぜなら、その子を閉じ込めておくことが、理想郷が保たれる条件だったからだ。
 オメラスの全ての幸せや美しい自然は、その子の犠牲の上に保たれているとみんなが理解していた。
 たった1人の子どもを地下室に閉じ込めておくことで、他の全ての人々が幸せに暮らせるならと、住人たちは見て見ぬ振りをしているんだ。
(テレビドラマ『MOZU』第九話より)