坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ナマケモノ

2011年09月26日 | 坊主の家計簿
 ちょいバタバタ。今も内職中(?)です。

 昨日は学習会。しかしながら二日酔いで胃がパンク。酒は抜けているのだが、見事に食欲なく、吐き気も残る。疲れも溜っていて「辞め!」だったのだが、受取りに行かなければならない荷物があって、とりあえず出かける。
 アカン、アカン、っちゅうねん。しんどくてイヤになって、プチ・パニックだったのだが、まあ、用事が済んだのでとっとと帰る。

 昨日、土曜日の野球(阪神)はデイゲームだったらしく、珍しく野球中継がない。AMラジオでは「変な動物」みたいなコーナーもやってた。
 え~。。。ナマケモノって、一日20時間も寝るのね。20時間って、起きてるのが4時間やんけ。どんな人生やねん、って、まあ、大きな御世話だ。ついでに調べると、一日8グラムの植物しか食べないみたいなのね。似た様なコアラが500グラムぐらい食べるらしく、ナマケモノって、おい(笑)最早『動物』というよりも『植物』と呼んだ方が良さそうな気もするのだが、これも大きな御世話だな。ナマケモノはナマケモノなんだし、「テメーのレッテルに縛られて生きる筋合いなんてねえんだよ」と、まあ、ナマケモノなので言わないと思うが(面倒だろうし)、まあ、大きな御世話である事には違いない。
 ナマケモノに憧れるグループ(http://www.sloth.gr.jp/aboutus/aboutus_top.html)もあったりするみたいだが、あれだってナマケモノにしてみれば「なんだかなぁ。。。」と言いつつ、頭をポリポリしているに違いない。あ、しないか。頭をかくと体力使うし、面倒だろうし。
 まあ、何にしても変な生き物だ。大きな御世話だろうが。

 何やら曹洞宗の坊さんが曹洞宗に対して「僧侶が妻帯しているのはオカシイやんけ!」みたいな感じで訴訟を起こしたらしい。が、却下されたらしいが。

【僧侶の結婚、口出し出来ぬ…永平寺訴訟で地裁】
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110923-OYT1T00196.htm

 特定の宗教法人内部の事に対して、その事柄が犯罪行為にあたらない限り国家が口出し出来るわけがない。やったら弾圧だし、とんでもない事。
 んな事は訴えた僧侶も散々解っているだろうが、きっと『僧侶の妻帯』という事を議論(問題提起)したかったのかも知れない。

 真宗教団が妻帯しているのは

【念仏のさまたげにきっとなりそうであるならば、どんなものでも、あらゆるものを嫌い捨てて、これをおやめなさい。いうなれば、聖の生活をしていて、念仏が申されないならば、妻をめとって申しなさい。妻をめとって申されないならば、聖の生活をして申しなさい。一つところに定住して申されないならば、遍歴して申しなさい。遍歴して申されないならば、家に住んで申しなさい。自分の力で衣食を調えて申されないならば、他人に助けられて申しなさい。他人に助けられて申されないならば、自分で衣食を調えて申しなさい。自分だけで申されないならば、仲間と一緒に申しなさい。一緒に行動して申されないならば、一人だけで籠って申しなさい。】(法然上人)

 が、端的か。「本願の念仏だからです」とテストなら書きたい所であるが、テストちゃうし。
 では、曹洞宗で妻帯が問題になるような厳しさが、真宗教団にないのか?

【いかにも私どもの生活は、完全に浄土を見失った生活と言わねばなりません。めいめいが自力各別のこころで自分の思いをかきたてることに精根を費やし、その自分の思いの通ることを求め、自分の思いが通らなければ敗残者、人生の落伍者であるかのような烙印を押すことに憂き身をやつしてきたのが、この半世紀にわたる私どものすがたであったのではないでしょうか。】(狐野秀存『願生150号』より)

 その厳しさは曹洞禅の厳しさとは別の厳しさである。
 曹洞宗で妻帯を問題提起した僧侶の方がどういう思いなのかは知らないが、やはり『世間』に対する問題があるのでは?と、勝手に想像する。妻帯は世間の常識(?)であっても、曹洞禅としてはどうなのだ?戒律としてどうなのだ?と。そういう問題提起ではなかったのでは?と。

 真宗には真宗の厳しさがあり、それが『真宗僧侶』になると、世間からは他宗の僧侶と同じ判断基準で見られる事が多い。私は『職業的メリット』という一番下衆な理由から丸坊主にしているが、まあ、『世間ウケ』である。いつか丸坊主を卒業したいのだが、え~。。。無理か。住職を引退したらもういっぺん髪の毛をツンツンにしよ。残っているかどうか知らないが。
 下衆な理由で丸坊主にしている理由は、純粋に仕事である。寺だけでは無理だし。他からの依頼を引き受ける場合に丸坊主の方がウケが良い。他宗の僧侶とは全く正反対の動機で丸坊主にしている。プライドでメシは喰えん。
 だが、同じ丸坊主にしている理由が「僧侶だから当然」というのならば、それは真宗仏教としてはどうよ。また、『世間が期待する僧侶像』に合わして行くのもどうよ。戦争になったらどうするのだ?時代に応える、その時代の求められる僧侶像に迎合して行くのって、どうよ。

 先に引用した狐野先生の文章は(講義録だが)

【まことに我々は、我々自身の生活を顧みます時、それは完全に浄土を見失った生活であることを認めなければなりません。】(新編・信国淳選集『呼応の教育』三三頁)

 という文章から始まる。
 この『認める』という『強さ(信頼)』が大事ではないかと。
 
 世間虚仮、唯仏是真ならば、世間で生きている私は虚仮である。そら、生活しなければならない。娘を育てなければならない。その為には何だってする。多くの生活者と何ら、全く変わりない。

 ナマケモノは他人からの判断では『ナマケモノ』と名付けられた。大きな御世話である。
 ナマケモノにはナマケモノの生活がある。ただ、それだけの話である。



 【まどみちお『ぼくが ここに』】

  ぼくが ここに いるとき
  ほかの どんなものも
  ぼくに かさなって
  ここに いることは できない

  もしも ゾウが ここに いるならば
  そのゾウだけ

  マメが いるならば
  その一つぶの マメだけ
  しか ここに いることは できない

  ああ このちきゅうの うえでは
  こんなに だいじに
  まもられているのだ
  どんなものが どんなところに
  いるときにも

  その「いること」こそが
  なににも まして
  すばらしいこと として



 地味に娘の為の内職(?)も終了。
 あ、厳密には『娘の為』という私の為。娘の笑顔を見たいのは私だし。