@宗祖親鸞聖人7才 1179年
5月28日 夜地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
7月 7日 地震。21日にも地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
11月 7日 京で大地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
【治承3年(1179)7月7日に、南風が吹くと天はたちまちに曇って夜道を歩くほどになったと思うと、大地が揺れた。同じ年の11月7日、又大地震があり、大地を打返すほどの揺れで、人々を大いに騒がした。翌8日、陰陽寮の安部泰親は院に行き、「このたびの大地震は、占の指す所、世は亡びの徴候である。もっての外の大凶なり」と言ってはらはらと涙を流した。】(源平盛衰記図会http://www3.starcat.ne.jp/~koten/genpege/genp18.htmlより)
@宗祖親鸞聖人9才 1181年『養和の飢饉』
【また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。
前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまに跡形なし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤・山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹付き、箔など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。】(鴨長明『方丈記』より 現代語訳http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki003.html)
【方丈記では、京都市中の死者を4万2300人とし、市中に遺体があふれていたことが記されている。あまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝えられている。】(wikipediaより)
@宗祖親鸞聖人41才 1213年
1月 1日 鎌倉で大地震。堂舎倒壊。(本朝年代記 2)
5月21日 午刻大地震。音があり、舎屋破壊、山崩れ地裂く。
(吾妻鏡21)(皇帝紀抄 8)(本朝年代記 2)(和漢合運指掌図)
地震のために改元。(古事類苑)
(http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htmより)
@宗祖親鸞聖人42才 1214年
2月 7日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
4月 3日 亥刻に地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
9月22日 大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
10月 6日 亥刻に大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
(http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htmより)
『親鸞、「さぬき」で三部経千部読誦を発願、やがて中止。常陸へ行く。』(真宗聖典1136頁より)
【もう一つ親鸞が善光寺の勧進聖に加わった理由が考えられる。それは先学諸氏が触れておられないことだが、勧進聖になることによって、親鸞は生活の糧を得たのではないか、ということである。勧進聖は善光寺の復興に努力しようという善意の人々であるが、無償奉仕のボランティアだったとは思われない。募財をして得た寄進金品のうち、なにがしかは報酬として勧進聖の手許に残されたと思われる。】(平松令三『親鸞の生涯』真宗教団連合編『親鸞』93頁より)
【この法事が旧仏教的であることは言うまでもなかろう。たとえ「衆生利益」のためであっても親鸞の思想からすれば許されるものではない。親鸞は法事が始まって四、五日経ってそれに気付いた。そして
みやうがうのほかには、なにごとのふそくにて、かならずきやうをよまんとするや
(み仏のみ名を称えるほかに、何の不足があって、一途に経を読もうとするのか)
と考えた。この言葉は、確かに親鸞らしい反省の弁である。しかし、これをそのままこの千部会の主催者や同僚たちに言っただろうか。もしこのまま言ったら、口論になることは必至だろう。そして今後、このグループの中で行動を共にすることはできなくなるにちがいない。それは、親鸞にとっても困ることである。善光寺聖との縁を維持しつつ教化活動を続けるためにも、ここは別の適当な口実を作って、千部会をぬけ出し常陸国へ向かったのだろう。】(平松令三『親鸞の生涯』真宗教団連合編『親鸞』96頁より)
@宗祖親鸞聖人43才 1215年
8月19日 地震あり。21日未刻、22日にも地震あり。(吾妻鏡22)
9月 6日 丑刻に地震、8日寅刻に地震あり。(吾妻鏡22)
9月11日 寅刻に大地震あり。未刻に小地震あり。17日まで余震。(吾妻鏡22)
9月21日 祈祷を行い、3万6千神を親職、地震祭を行う。江能範使いとなる。(吾妻鏡22)
10月 2日 寅刻地震あり。(吾妻鏡22)
12月15日 亥刻地震。(吾妻鏡22)
12月16日 「将軍家殊に御謹慎あるべき変なり」と司天勘文を捧げる。(吾妻鏡22)
12月30日 御前南庭で祈祷。(吾妻鏡22)
@宗祖親鸞聖人59才 1231年
【1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲った。この年の夏は、「連日の豪雨」、「冬のような冷たい気候」だったと伝えられている。これが寛喜の大飢饉の始まりとなる。
『吾妻鏡』は、6月9日(現在の7月27日)には、武蔵国金子郷で落雷があり、同時に雹(ヒョウ)が降ったとされ、美濃国蒔田荘では白雪が降ったとの報告があったと伝えており、7月16日には諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごとし。」と記している。
8月6日の晩には、洪水が起き、河辺の民居が流出し、多くの溺死者を出した。さらに8月8日には台風に襲われ、『吾妻鏡』には「草木葉枯れ、偏(ひとえ)に冬気の如し。稼穀みな損亡」と記されている。
同じ年の冬について『明月記』は、麦が穂を出し、桜の花が咲き、コオロギが鳴いたと暖冬であったことを伝えている。
1231年(寛喜3年)は、昨年夏の冷夏による影響で飢餓に襲われた。3月には餓死者が多く発生し、三代執権北条泰時は、出挙米(領主からの貸付米)のある者に、施しをするよう通達を出している。この状況は8月頃まで続き、餓死者の死骸がところどころに放置されていたという。
夏は晴天が続き、飢饉も収束するかに思えたが、炎暑と干ばつが収穫に影響を与え、麦の種も半分しか確保できないとう状況となった。
飢饉の状態は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれた。】(http://www8.plala.or.jp/bosatsu/seisaku/kangi-kikin.htmより)
【親鸞発熱、病床で『大経』を読み、建保2年の「三部経読誦」の反省を恵信尼に告げる。】(真宗聖典1137頁より)
【(五)善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。さて、臥して四日と申すあか月、苦しさに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、「たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。
『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。
弘長三年二月十日 恵信】(真宗聖典619~620頁より 現代語訳http://www.anrakuji.net/tyosaku/eshinni5.html)
@宗祖親鸞聖人85才~89才 1257年~1261年『正嘉の飢饉』
【寛喜の飢饉に続いて、正嘉年間(1257~1259)にも鎌倉は飢饉に襲われた。
1257年(正嘉元年)には、大地震が起きるなど自然災害が頻発したことが『吾妻鏡』に記されている。また、翌年6月24日の条には「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」と記している。
8月には暴風雨によって「諸国の田園ことごとくもって損亡す」とあり、さまざまな天変地異の現象が起きていたことが窺える。
その他、大流星の発生や北条政村の息女が比企能員の娘に祟られるという怪異現象も発生し、鳥にまつわる怪異も伝えられている(参考:蛇苦止堂と蛇苦止ノ井(妙本寺))。
路上にあふれる死人と病人
自然災害だけではなく火災などの人災も多く発生し、1260年(文応元年)に日蓮が五代執権北条時頼に献じた『立正安国論』には、「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。」と記されている。
鎌倉の道には死人や病人であふれていた。1261年(弘長元年)、幕府は「病者、孤子(みなしご)、死屍を路辺に捨てる」ことを禁じている。
また、捨てられた病人を無常堂に収容することも定めた(無常堂は、由比ヶ浜にあった無縁の病人を収容する終末医療施設)。】(http://www8.plala.or.jp/bosatsu/seisaku/shoka-kikin.htmより)
*1260年 日蓮『立正安国論』
【仍つて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当に施し虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、故に国王は郡郷を寄せて以て灯燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う。
而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨てて 並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。】(日蓮『立正安国論』より。現代語訳はhttp://www4.ocn.ne.jp/~sen0001/gosyo02b.html)
【(六)なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。
文応元年十一月十三日 善信八十八歳】(真宗聖典603頁より)
【いずれの年にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いでなくなられたことは、誠にいたわしいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません。まずわたくしとしましては、臨終の善し悪しは申しません。信心の定まった人は疑いの心がありませんから、浄土に生まれる身となっているわけであって、それでこそ愚かな人や無智な人でも終わりもめでたくまっとうすることができるのです。如来のおはからいによって浄土に生まれると、あなたが人々に申されていることは、わたしと少しも違っておりません。年来、わたしがこのように人々に申して来たことは今も変わりありません。けっして学者ぶった議論をなさらないで、浄土に生まれることをなし遂げてください。なくなった法然上人が「浄土の教えを信ずる人は愚か者となって浄土に生まれる」と仰せられたことを、確かに承りましたばかりでなく、なんの弁えもないあさましい人々が訪ねてくるのをご覧になっては、「かならず浄土に生まれるにちがいない」と、微笑まれるのを見たことでした。学問をした、いかにも賢しい人が訪ねてきたときは「浄土に生まれることはどうだろうか」と、仰せられるのを確かに承りました。今になって思いあわせられます。ほかの人々に騙されないようになさり、またご信心を後もどりさせないようになさって、それぞれ浄土に生まれなくてはなりません。もっとも、ひとに騙されなくても、信心の定まらない人は浄土に生まれる身とはなっていない人で、落ち着かない人であります。あなたにこのように申しあげることを、ほかの人人にもお話下さい。謹言。】(中央公論社『日本の名著 親鸞』109~110頁より)
@おまけ。和田稠先生 「くにのいのり」 2000年8月4日
(http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/wadasigesi.htm
【ところがどうも一般には、うちの家は真宗や、向かいのうちは日蓮宗や、あれは創価学会や、と言うて、いつの間にか相手の世界を認めない。一つのセクトになっていませんか、真宗教団というものが。
セクトになれば親鸞さまのお言葉が必ず「これは絶対である」というイデオロギーになってしまうんです。教えの言葉が自分の立場を絶対化するところの教条主義、イデオロギーになってしまうんですね。】
【核というものに対して反対する。これは当たり前の話です。しかし、我々はそれだけではない。】
【平和の意志表示というのは誰でもやります。社会党の人も共産党の人もやります。しかし原爆反対という大事なことでも、日本では一つになれんのですね。二つに分かれてしまう。そういう現実があるでしょう。
そういうことをあらためて我々自身の生き方に関する問題として深めていくと。そのことが真宗に学ぶことであろうと思うんです。
そこに新しい生が、瞬時としてとどまることのない、深まり続け広がり続け、その代わり自分の今までしっかり握っていた古い世界が壊れ続け、破られ続ける、そこにオギャーオギャーと日々新たに生まれる。我々も南無阿弥陀仏と生まれ続ける。そういう往生という境界をいただくんだと。
こういうことを我々は非核非戦の法要を一つの大きな縁として思います。
時間が来ました。申し上げていたらきりがありませんから、これで終わります。生きて再び皆さん方にお会いすることはおそらくなかろうと思います。間違いないです、これは。
私の最晩年にこういう貴重な時を与えて下さった。これが私の驚きであり、感動ですよ。そういう時を皆さん方とともにしたい。そういう生き生きとした時を共に生きたい。それが「普く諸々の衆生と共に」とおっしゃる、私一個人に限らずいのちを生きる全人類に流れておる大きな要求でございましょう。その究極的な要求を宗教心というのです。
そういうことをあらためて親鸞聖人によって毎日毎日確認させていただくということが大事であろうと思います。これで終わります。】
早く通信作れ、っちゅうねん。。。
え~。。。飲みに行くのは断念。まあ、咳もイマイチやし。っちゅうか、出来てないし。
5月28日 夜地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
7月 7日 地震。21日にも地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
11月 7日 京で大地震。(玉葉30、31)(源平盛衰記)(山槐記)
【治承3年(1179)7月7日に、南風が吹くと天はたちまちに曇って夜道を歩くほどになったと思うと、大地が揺れた。同じ年の11月7日、又大地震があり、大地を打返すほどの揺れで、人々を大いに騒がした。翌8日、陰陽寮の安部泰親は院に行き、「このたびの大地震は、占の指す所、世は亡びの徴候である。もっての外の大凶なり」と言ってはらはらと涙を流した。】(源平盛衰記図会http://www3.starcat.ne.jp/~koten/genpege/genp18.htmlより)
@宗祖親鸞聖人9才 1181年『養和の飢饉』
【また養和のころとか、久しくなりて確かにも覚えず、二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。或いは春・夏、ひでり、或いは秋・冬、大風・洪水など、よからぬことどもうち続きて、五穀ことごとくならず。むなしく春耕し、夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。
これによりて、国々の民、或いは地を棄てて境を出で、或いは家を忘れて山に住む。さまざまの御祈始まりて、なべてならぬ法ども行はるれど、更にそのしるしなし。京のならひ、何わざにつけても、源は田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物、かたはしより捨つるがごとくすれども、更に目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、愁へ悲しむ声耳に満てり。
前の年、かくの如く、辛うじて暮れぬ。明くる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ疫癘うちそひて、まさざまに跡形なし。世の人みなけいしぬれば、日を経つつ、きはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには、笠打ち着、足引き包み、よろしき姿したるもの、ひたすらに、家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬるもののたぐひ、数も知らず。取り捨つるわざも知らねば、臭き香世界に満ち満ちて、変はりゆくかたちありさま、目も当てられぬこと多かり。いはむや、河原などには、馬・車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤・山がつも力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命にだに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に、赤き丹付き、箔など所々に見ゆる木、あひ混じはりけるを尋ぬれば、すべき方なきもの、古寺に至りて仏を盗み、堂の物の具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生まれあひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。】(鴨長明『方丈記』より 現代語訳http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/knowledge/japan/houjouki003.html)
【方丈記では、京都市中の死者を4万2300人とし、市中に遺体があふれていたことが記されている。あまりの多さに供養が追いつかず、仁和寺の僧が死者の額に「阿」の字を記して回ったとも伝えられている。】(wikipediaより)
@宗祖親鸞聖人41才 1213年
1月 1日 鎌倉で大地震。堂舎倒壊。(本朝年代記 2)
5月21日 午刻大地震。音があり、舎屋破壊、山崩れ地裂く。
(吾妻鏡21)(皇帝紀抄 8)(本朝年代記 2)(和漢合運指掌図)
地震のために改元。(古事類苑)
(http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htmより)
@宗祖親鸞聖人42才 1214年
2月 7日 鎌倉で大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
4月 3日 亥刻に地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
9月22日 大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
10月 6日 亥刻に大地震。(吾妻鏡22)(皇帝紀抄 8)(百錬抄12)
(http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htmより)
『親鸞、「さぬき」で三部経千部読誦を発願、やがて中止。常陸へ行く。』(真宗聖典1136頁より)
【もう一つ親鸞が善光寺の勧進聖に加わった理由が考えられる。それは先学諸氏が触れておられないことだが、勧進聖になることによって、親鸞は生活の糧を得たのではないか、ということである。勧進聖は善光寺の復興に努力しようという善意の人々であるが、無償奉仕のボランティアだったとは思われない。募財をして得た寄進金品のうち、なにがしかは報酬として勧進聖の手許に残されたと思われる。】(平松令三『親鸞の生涯』真宗教団連合編『親鸞』93頁より)
【この法事が旧仏教的であることは言うまでもなかろう。たとえ「衆生利益」のためであっても親鸞の思想からすれば許されるものではない。親鸞は法事が始まって四、五日経ってそれに気付いた。そして
みやうがうのほかには、なにごとのふそくにて、かならずきやうをよまんとするや
(み仏のみ名を称えるほかに、何の不足があって、一途に経を読もうとするのか)
と考えた。この言葉は、確かに親鸞らしい反省の弁である。しかし、これをそのままこの千部会の主催者や同僚たちに言っただろうか。もしこのまま言ったら、口論になることは必至だろう。そして今後、このグループの中で行動を共にすることはできなくなるにちがいない。それは、親鸞にとっても困ることである。善光寺聖との縁を維持しつつ教化活動を続けるためにも、ここは別の適当な口実を作って、千部会をぬけ出し常陸国へ向かったのだろう。】(平松令三『親鸞の生涯』真宗教団連合編『親鸞』96頁より)
@宗祖親鸞聖人43才 1215年
8月19日 地震あり。21日未刻、22日にも地震あり。(吾妻鏡22)
9月 6日 丑刻に地震、8日寅刻に地震あり。(吾妻鏡22)
9月11日 寅刻に大地震あり。未刻に小地震あり。17日まで余震。(吾妻鏡22)
9月21日 祈祷を行い、3万6千神を親職、地震祭を行う。江能範使いとなる。(吾妻鏡22)
10月 2日 寅刻地震あり。(吾妻鏡22)
12月15日 亥刻地震。(吾妻鏡22)
12月16日 「将軍家殊に御謹慎あるべき変なり」と司天勘文を捧げる。(吾妻鏡22)
12月30日 御前南庭で祈祷。(吾妻鏡22)
@宗祖親鸞聖人59才 1231年
【1230年(寛喜2年)、天候不順による大凶作が全国を襲った。この年の夏は、「連日の豪雨」、「冬のような冷たい気候」だったと伝えられている。これが寛喜の大飢饉の始まりとなる。
『吾妻鏡』は、6月9日(現在の7月27日)には、武蔵国金子郷で落雷があり、同時に雹(ヒョウ)が降ったとされ、美濃国蒔田荘では白雪が降ったとの報告があったと伝えており、7月16日には諸国に霜が降り、「ほとんど冬天のごとし。」と記している。
8月6日の晩には、洪水が起き、河辺の民居が流出し、多くの溺死者を出した。さらに8月8日には台風に襲われ、『吾妻鏡』には「草木葉枯れ、偏(ひとえ)に冬気の如し。稼穀みな損亡」と記されている。
同じ年の冬について『明月記』は、麦が穂を出し、桜の花が咲き、コオロギが鳴いたと暖冬であったことを伝えている。
1231年(寛喜3年)は、昨年夏の冷夏による影響で飢餓に襲われた。3月には餓死者が多く発生し、三代執権北条泰時は、出挙米(領主からの貸付米)のある者に、施しをするよう通達を出している。この状況は8月頃まで続き、餓死者の死骸がところどころに放置されていたという。
夏は晴天が続き、飢饉も収束するかに思えたが、炎暑と干ばつが収穫に影響を与え、麦の種も半分しか確保できないとう状況となった。
飢饉の状態は、1239年頃まで続いたものと考えられ、「天下の人種三分を一失す」といわれた。】(http://www8.plala.or.jp/bosatsu/seisaku/kangi-kikin.htmより)
【親鸞発熱、病床で『大経』を読み、建保2年の「三部経読誦」の反省を恵信尼に告げる。】(真宗聖典1137頁より)
【(五)善信の御房、寛喜三年四月十四日午の時ばかりより、風邪心地すこしおぼえて、その夕さりより臥して、大事におわしますに、腰・膝をも打たせず、天性、看病人をも寄せず、ただ音もせずして臥しておわしませば、御身をさぐれば、あたたかなる事火のごとし。頭のうたせ給う事もなのめならず。さて、臥して四日と申すあか月、苦しさに、「今はさてあらん」と仰せらるれば、「何事ぞ、たわごととかや申す事か」と申せば、「たわごとにてもなし。臥して二日と申す日より、『大経』を読む事、ひまもなし。たまたま目をふさげば、経の文字は一字も残らず、きららかに、つぶさに見ゆる也。さて、これこそ心得ぬ事なれ。念仏の信心より外には、何事か心にかかるべきと思いて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく『三部経』を千部読みて、衆生利益のためにとて、読みはじめてありしを、これは何事ぞ、自信教人信、難中転更難とて、身ずから信じ、人をおしえて信ぜしむる事、まことの仏恩を報いたてまつるものと信じながら、名号の他には、何事の不足にて、必ず経を読まんとするや、思いかえして、読まざりしことの、さればなおも少し残るところのありけるや。人の執心、自力の心は、よくよく思慮あるべしと思いなして後は、経読むことは止りぬ。さて、臥して四日と申すあか月、今はさてあらんとは申す也」と仰せられて、やがて汗垂りて、よくならせ給いて候いし也。
『三部経』、げにげにしく、千部読まんと候いし事は、信蓮房の四の年、武蔵の国やらん、上野の国やらん、佐貫と申す所にて、読みはじめて、四五日ばかりありて、思いかえして、読ませ給わで、常陸へおわしまして候いしなり。信蓮房は未の年三月三日の昼、生まれて候いしかば、今年は五十三やらんとぞおぼえ候う。
弘長三年二月十日 恵信】(真宗聖典619~620頁より 現代語訳http://www.anrakuji.net/tyosaku/eshinni5.html)
@宗祖親鸞聖人85才~89才 1257年~1261年『正嘉の飢饉』
【寛喜の飢饉に続いて、正嘉年間(1257~1259)にも鎌倉は飢饉に襲われた。
1257年(正嘉元年)には、大地震が起きるなど自然災害が頻発したことが『吾妻鏡』に記されている。また、翌年6月24日の条には「鎌倉の寒気はまるで冬天のようだ」と記している。
8月には暴風雨によって「諸国の田園ことごとくもって損亡す」とあり、さまざまな天変地異の現象が起きていたことが窺える。
その他、大流星の発生や北条政村の息女が比企能員の娘に祟られるという怪異現象も発生し、鳥にまつわる怪異も伝えられている(参考:蛇苦止堂と蛇苦止ノ井(妙本寺))。
路上にあふれる死人と病人
自然災害だけではなく火災などの人災も多く発生し、1260年(文応元年)に日蓮が五代執権北条時頼に献じた『立正安国論』には、「天変・地夭・飢饉・疫癘遍く天下に満ち・・・・牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。」と記されている。
鎌倉の道には死人や病人であふれていた。1261年(弘長元年)、幕府は「病者、孤子(みなしご)、死屍を路辺に捨てる」ことを禁じている。
また、捨てられた病人を無常堂に収容することも定めた(無常堂は、由比ヶ浜にあった無縁の病人を収容する終末医療施設)。】(http://www8.plala.or.jp/bosatsu/seisaku/shoka-kikin.htmより)
*1260年 日蓮『立正安国論』
【仍つて伝教・義真・慈覚・智証等或は万里の波涛を渉つて渡せし所の聖教或は一朝の山川を廻りて崇むる所の仏像若しくは高山の巓に華界を建てて以て安置し若しくは深谷の底に蓮宮を起てて以て崇重す、釈迦薬師の光を並ぶるや威を現当に施し虚空地蔵の化を成すや益を生後に被らしむ、故に国王は郡郷を寄せて以て灯燭を明にし地頭は田園を充てて以て供養に備う。
而るを法然の選択に依つて則ち教主を忘れて西土の仏駄を貴び付属を抛つて東方の如来を閣き唯四巻三部の教典を専にして空しく一代五時の妙典を抛つ是を以て弥陀の堂に非ざれば皆供仏の志を止め念仏の者に非ざれば早く施僧の懐いを忘る、故に仏閣零落して瓦松の煙老い僧房荒廃して庭草の露深し、然りと雖も各護惜の心を捨てて 並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには。】(日蓮『立正安国論』より。現代語訳はhttp://www4.ocn.ne.jp/~sen0001/gosyo02b.html)
【(六)なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう。まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず、信心決定のひとは、うたがいなければ、正定聚に住することにて候うなり。さればこそ、愚痴無智のひともおわりもめでたく候え。如来の御はからいにて往生するよし、ひとびともうされ候いける、すこしもたがわず候うなり。としごろ、おのおのにもうし候いしこと、たがわずこそ候え。かまえて、学生沙汰せさせたまい候わで、往生をとげさせたまい候うべし。故法然聖人は、「浄土宗のひとは愚者になりて往生す」と候いしことを、たしかにうけたまわり候いしうえに、ものもおぼえぬあさましき人々のまいりたるを御覧じては、往生必定すべしとてえませたまいしをみまいらせ候いき。ふみざたして、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。いまにいたるまでおもいあわせられ候うなり。ひとびとにすかされさせたまわで、御信心たじろかせたまわずして、おのおの御往生候うべきなり。ただし、ひとにすかされたまい候わずとも、信心のさだまらぬひとは、正定聚に住したまわずして、うかれたまいたるひとなり。乗信房にかようにもうしそうろうようを、ひとびとにももうされ候うべし。あなかしこ、あなかしこ。
文応元年十一月十三日 善信八十八歳】(真宗聖典603頁より)
【いずれの年にもまして、去年と今年に、老若男女、多くの人々が相次いでなくなられたことは、誠にいたわしいことであります。けれども生死の無常である道理は詳しく如来の説き置かれておられるところでありますから、いまさら驚かれることではありません。まずわたくしとしましては、臨終の善し悪しは申しません。信心の定まった人は疑いの心がありませんから、浄土に生まれる身となっているわけであって、それでこそ愚かな人や無智な人でも終わりもめでたくまっとうすることができるのです。如来のおはからいによって浄土に生まれると、あなたが人々に申されていることは、わたしと少しも違っておりません。年来、わたしがこのように人々に申して来たことは今も変わりありません。けっして学者ぶった議論をなさらないで、浄土に生まれることをなし遂げてください。なくなった法然上人が「浄土の教えを信ずる人は愚か者となって浄土に生まれる」と仰せられたことを、確かに承りましたばかりでなく、なんの弁えもないあさましい人々が訪ねてくるのをご覧になっては、「かならず浄土に生まれるにちがいない」と、微笑まれるのを見たことでした。学問をした、いかにも賢しい人が訪ねてきたときは「浄土に生まれることはどうだろうか」と、仰せられるのを確かに承りました。今になって思いあわせられます。ほかの人々に騙されないようになさり、またご信心を後もどりさせないようになさって、それぞれ浄土に生まれなくてはなりません。もっとも、ひとに騙されなくても、信心の定まらない人は浄土に生まれる身とはなっていない人で、落ち着かない人であります。あなたにこのように申しあげることを、ほかの人人にもお話下さい。謹言。】(中央公論社『日本の名著 親鸞』109~110頁より)
@おまけ。和田稠先生 「くにのいのり」 2000年8月4日
(http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/wadasigesi.htm
【ところがどうも一般には、うちの家は真宗や、向かいのうちは日蓮宗や、あれは創価学会や、と言うて、いつの間にか相手の世界を認めない。一つのセクトになっていませんか、真宗教団というものが。
セクトになれば親鸞さまのお言葉が必ず「これは絶対である」というイデオロギーになってしまうんです。教えの言葉が自分の立場を絶対化するところの教条主義、イデオロギーになってしまうんですね。】
【核というものに対して反対する。これは当たり前の話です。しかし、我々はそれだけではない。】
【平和の意志表示というのは誰でもやります。社会党の人も共産党の人もやります。しかし原爆反対という大事なことでも、日本では一つになれんのですね。二つに分かれてしまう。そういう現実があるでしょう。
そういうことをあらためて我々自身の生き方に関する問題として深めていくと。そのことが真宗に学ぶことであろうと思うんです。
そこに新しい生が、瞬時としてとどまることのない、深まり続け広がり続け、その代わり自分の今までしっかり握っていた古い世界が壊れ続け、破られ続ける、そこにオギャーオギャーと日々新たに生まれる。我々も南無阿弥陀仏と生まれ続ける。そういう往生という境界をいただくんだと。
こういうことを我々は非核非戦の法要を一つの大きな縁として思います。
時間が来ました。申し上げていたらきりがありませんから、これで終わります。生きて再び皆さん方にお会いすることはおそらくなかろうと思います。間違いないです、これは。
私の最晩年にこういう貴重な時を与えて下さった。これが私の驚きであり、感動ですよ。そういう時を皆さん方とともにしたい。そういう生き生きとした時を共に生きたい。それが「普く諸々の衆生と共に」とおっしゃる、私一個人に限らずいのちを生きる全人類に流れておる大きな要求でございましょう。その究極的な要求を宗教心というのです。
そういうことをあらためて親鸞聖人によって毎日毎日確認させていただくということが大事であろうと思います。これで終わります。】
早く通信作れ、っちゅうねん。。。
え~。。。飲みに行くのは断念。まあ、咳もイマイチやし。っちゅうか、出来てないし。