坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

己が分を思量せよ。

2009年06月24日 | 坊主の家計簿
 昨日は仕事でバタバタした後に学習会→飲み。居酒屋で飲んだ後、親しい大好きな先輩と「もう一件行きまひょか」っちゅう感じ。
 っちゅう事で、飲む、飲む。
 よって、今日はヘロヘロ。。。

 しかし、結構『激動』っちゅう感じの最近である。
 結婚して、住職になり、再来月にはパパにもなる。諸々の事情によって別の寺の手伝いなんぞもしてるし、某会の代表になったりしたし。激動、激動である。
 んが、んな事を云いながらでも、こうやってネットで遊んだり、飲みに行ったりする時間があったりする。まあ、頭の中はパンクしそうなくらいにあれやこれやとあるのだが、とりあえず日々の生活をしつつやっている。
 んが、忘れ物が多い。。。
 昨日は手伝いに行く寺での仕事に必要だった勤行本を忘れて向こうの寺で借りる。学習会に行く途中に「財布に金入れ忘れたやんけ」と云う事で銀行に行ったら、ATMコーナーで直前に104円で買ったペットボトルのレモンティーを忘れる。出かける時に自転車のカギを忘れるなんぞは日常茶飯事。そういや、向こうの寺に「法事の日程大丈夫ですよ」っちゅう電話をするのを忘れとるやんけ。。。
 「私は大丈夫である」ではなく、「私は大丈夫でない」と。
 大丈夫でないのなら、マメにメモである。マメにメモして、「私は大丈夫ではない」と。

 煩悩具足の身である。故に「私は大丈夫ではない」と、佛の教えを聞いて行くしかないと。

 先日、いとこの住職襲職法要で講師の玉光先輩が母校での思い出なんぞも語って居られた。自分にひつこく関わって下さった先生達との出会いによって卒業時には「生涯親鸞聖人の教えにこだわって生きて行く」という決断をされたらしい。
 そういえば別の先輩は「常に親鸞から見られている気がする」と書かれておられた。
 その母校は専修学院という。専修とは『専修念仏』の『専修』である。専修念仏の道場である。

 『念仏も』ではない。『ただ念仏』である。
 念仏が弾圧されて法然や親鸞が流罪にされ、法然の弟子、親鸞の兄弟弟子が死罪になったわけではない。『専修念仏』『ただ念仏』が故に弾圧されたのだ。『念仏も』なら弾圧されなかった。

【私に云く、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者能くこれを思量せよ。】(法然『選択本願念仏集』より)

【また云わく、『大集経』に云わく、「我が末法の時の中の億億の衆生、行を起こし道を修せんに、未だ一人も得るものあらじ」と。当今、末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門ありて通入すべき路なり、と。已上
 しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、己が分を思量せよ。】(親鸞『教行信証』より)