坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

大谷派の決断

2009年06月12日 | 坊主の家計簿
 よっと。
 え~。。。昨日は飲み歩き。ファニーメイ→ら→カムズ。当然(?)電車がないので初タクシー帰宅。
 
 あ、その前に掲示板に

   善い天気
   悪い天気
    と
  天すらも裁くのが
   凡夫(ただのひと)
   である

 なんぞと書く。え~。。。厳密には書いていない。仕事から帰って黒板にチョークで書こうとしたら家族の皆様買い物中。「チョークある場所、解らん。。。」っちゅう事で、パソコンから打ち出して、近所のコンビニで拡大コピーして完成。
 前日予定していた言葉

【梅雨 「うっとうしい」 と、 ワガママの雨】
 
 は、エライ晴れてたので辞め。梅雨が本格的になりだしたら使うかも知らんが、まあ、その時の気分で言葉なんぞ変わるし。

 しゃて、さっきまで前夜録画しておいた『ルビコンの決断』っちゅう番組を見る。
 (http://www.tv-tokyo.co.jp/rubicon/backnumber/090611.html)
 『おぼうさんどっとこむ』(http://www.obohsan.com/)
 っちゅう会社をやっている社長さんの特集。興味深く見る。

 「葬儀費用を安くしたい。」っちゅうのは、まあ、余程特定の教団&寺に対して信仰心があつい人でない限り、共通の感覚だと思ったりするのだが、どうなんだろうか?
 以前も書いたが、子どもの頃の私の意識では『お坊さん=泥棒』だったし。
 布施なんぞも信仰心があるが故に布施なんだろうし、なければ単に収奪されているに過ぎない。だから、「布施が高い」なんぞの声が出て来る。高いもクソもないのだ。ホンマは。
 大阪での葬儀の相場は15万ぐらいかな?これに食事&車代&初七日がついて20万ぐらいだと思う。
 んが、古くからの村での相場はその半額ぐらいだったりする。
 福祉の葬儀が5万円だったはず。
 結構、「え?」って云うような『相場』で坊さんは葬式をしてたりする(笑)東京と大阪の相場の違いがあるんだろうけど、『おぼうさんどっとこむ』の葬儀価格を見て「なんや、うちの方が安いやんけ。。。」と思われる住職も結構居たりすると思うのだが(笑)
 なんだが、まあ、情報がない。『おぼうさんどっとこむ』は『布施』という非常に怪しげなもんを明確にした、情報を広く打ち出して安心して多くの方々に利用出来るようにしただけでも素晴らしい。
 
 ちなみに私も似たような事を始める。ただし、私は大谷派僧侶なので『大谷派限定』である。あくまでも大谷派の教えを広める為に、その入り口として葬儀をするだけの話である。当然、戒名でなく法名だし、他宗派の方は大谷派に改宗して頂く。
 寺を通すと『寺の相場』になるので、寺を通さずに個人的にやる。まあ、その後、寺とも付き合って頂ければ幸いなんだが、「寺と付き合うと寄付とかうるさいしイヤ」なら、個人的付き合いでも全然構わない。そんな贅沢は云わん。ちょっとでもエエから話を聞いてくれたらエエだけの事である。

 仏事に関するハードルが高い。
 これは色々な宗派の『僧侶』が居てるからなんだろうが、今日行って来た(代打の通夜)葬儀会館ではいちいち「○○でよろしいでございましょうか?」と。一瞬「俺はどんだけ威張り散らしてる坊主やねん」と思ってまう程、クソ丁寧な扱い。
 また、最近チラホラ読み出している本が本願寺派から出てるやつなんやけど、やはり本願寺派と大谷派では『僧侶』と云う事に対する意識が違っていると思ったりもする。大谷派は『僧』と『俗』の差を縮めよう、縮めようとしているとしか思えないのだが、本願寺派はそうでもないみたいである。まあ、『門の主』(門主=本願寺派)と、『門徒の首座』(門首=大谷派)との違いか。大谷派は『門首』ですら『門徒』扱いだし。
 『僧』と『俗』だから、ハードルが高い気がしたりするのだが。。。

 「おじゅっさん、葬儀のお布施、これぐらいでよろしいでっか」
 「もう少し高くして貰わないと。。。」
 「あ、ほな宜しいわ。ウチらだけでもやれますし。せっかく導師で呼んだろ思たのに、偉そうにしやがって。ウチらだけでやりまっさ」

【大谷派教団では、門首制と、「門徒はすべて帰敬式を受けて」という、この二つが新しい宗憲の柱なのです。「門徒はすべて帰敬式を受けよう」、ということは、本当に画期的な意味をもつわけです。(中略)
 私は直接確かめてはいないのですが、大谷派の参議会から声が挙がって、「百万人帰敬式運動」ということが始まっているというのです。百万人の門徒の人が帰敬式を受けられたら、日本は変わるでしょう。門徒の人たちの声が上がって、百万人帰敬式運動が始まるということであれば、すばらしいことです。そうすると、住職さんは段々と仕事がなくなるかもしれません。「逮夜参りはもう結構です、私たちでお内仏のお勤めをします」ということになるのではないでしょうか。本来そういうことだったのが門徒の行儀なのです。
 門徒の行儀として蓮如上人の時からずっと大事に伝統されたのが、在家勤行なのです。お内仏の前で、家族そろって毎日朝夕の勤行をしていたのです。生活にまでなっていくわけです。聞法が一つの生活を作り出すというのが、お内仏のお勤めということです。これは門徒の行儀なのです。しかし、それが江戸時代以来の檀家制度の中で崩れていったのです。
 それが、今度、「門徒はすべて帰敬式を受けて欲しい」として、百万人帰敬式運動ということが始まっていくというのは、これは本当に宗門が再生していくチャンスです。】(竹中智秀『浄土を本国としてこの世を生きる』P143~145より)

【経典を読誦してもらう側にとってみれば、自分達が経典を読誦するよりは、専門家である方々が経典を読誦した方がより多くの利他を引きだしうるはずだというところにたっているかと思います。そのための布施と供養なのです。そうすると、利他を引き出すということに直接関わる者が専門家であるなら、専門家は回向利益という構造において民衆を支配することが非常に容易だという面がでてまいります。「お布施が安いとうかばれんぞ」、というのは完全に支配です。宗教に専門的に関わっているものがもつところの支配権です。
 そういう点でいえば「余道に事うる」とか「天を拝す」とか「鬼神を祀る」というような問題も、個人だけの目で見れば、そうとやかく問題にならないかと思うんですけど、鬼神を祀るにしろ、天を拝するにしろ、それぞれの専門家の存在があるということです。その専門家への布施によって、その行為は成り立っている。より多くの利他を引き出すために専門家がある。その専門家に布施供養することによって、そこから利益を引きだすという宗教構造だろうと思います。そうすると、専門外の人々は布施をすることで、先ほど言いました収奪の問題、専門家のあり方次第によってはどんな利益がでてくるかという、そういう支配される関係を結ばざるをえません。そして、その宗教が回向利益という構造にある場合は、収奪・支配の関係をまぬがれません。】(平野修『鬼神からの解放』上巻 P81~82より)

 っちゅうのが大谷派やし。