坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『知識』と『信仰』

2008年11月16日 | 坊主の家計簿
 11月16日

 外食  ちゃんぽん      730円
 食類  諸々         337円

 合計            1067円
 11月累計        47155円

 何やら、『蓮如を知らなかった真宗僧侶』が居たらしい。
 んなもん、最初は誰も知らん、っちゅうねん。。。
 また、蓮如を知らない真宗僧侶が『劣っている』とは別に思わん。勉強すればエエだけの話だ。学校のテストでなら欠点間違いなしだろうが、それと信仰は別である。信仰のテストでなら、口先だけで南無阿弥陀仏と云えればイイ。
 南無阿弥陀仏と念仏申す人を念仏者と云い、念仏者に『僧侶』も『門徒』も差はない。あるのは教団内の資格の話、つまり娑婆での『僧侶』であり、『門徒』である。
 「○○をするのが真宗門徒である」の中の『○○』の中には『念仏』しか入れる事は出来ない。それ以外の事を入れたいのならば、真宗門徒を辞めてから入れればイイ。
 例えば『○○』の中に、社会運動や、ボランティアや、慈善活動等を入れるのであれば、真宗門徒を辞めてから入れればイイ。そんなもんは、真宗門徒の条件には入らない。他の様々な修行も同じである。あくまでも『○○』の中には『念仏』しか入らない。真宗僧侶(門徒)とは、念仏申す念仏者の事である。
 当然、知識なんぞも問題になるわけがない。
 知識を深める、社会活動なんぞを熱心にするのならば、勝手にすればイイ。そんな事が真宗門徒の条件である話は聞いた事がない。
 まあ、人間は差別が好きで、知識だろうが、行動だろうが、念仏の数だろうが、何を使っても差別したがる。それだけの話である。当然、世間での評価だとか、社会的地位だとか、身分だとか、血統だとか、そういうものに対する批判原理が真宗仏教の世界である。

 ちなみに私も蓮如の事はよく知らない。通り一遍の事は『知って』いるが、別に研究者でもないのでよく知らない。

 『真宗の生活』という小冊子がある。それの2009年度版にこういう事が書いてあった。

【北陸の小さな寺に育った私には、「御開山」は身近な人だった。ただし「ごかいさん」がどういう人かは知らなかった。「あみださん」も「ほんこさん(報恩講)」も「おたいっさん(春の聖徳太子御忌)」も「おふみさん(御文)」も、みな親戚のような人だと思っていた。
 「親鸞」という人の名は中学校で習った。その人が「ごかいさん」だと了解するのは、もう少し後である。】(2009年度版『真宗の生活』10ページより)

【『歎異抄』はそれまでに何度か読んだこともあり、友人たちと物知りげに議論したこともあった。しかしそれは知識、教養としての古典であり、真宗念仏の僧伽復興の悲願と念力から生まれた書物であるとなどと考えもしなかった。まして「親鸞聖人」と、聖人と尊称することはとても恥ずかしくて口にできる言葉ではなかった。
 しかし先生は、そのような私のちっぽけな自尊心を自白のもとに引き出してくださったのである。「君はいったい何者なのか」「何をしにここに来たのか」。そういう無言の問いかけをしてくださったのだと気づくのは、それからさらに十数年という年月を経なければならないのだが、ともかく私は信國先生という念仏の人によって、手を引っ張られるように「真宗の門」の前まで連れてこられたのである。
 それから長い時を経た。「念仏もうしなさい」という師の教えを繰り返し聞きながら、どうにか「親鸞聖人」とその人の名を呼ぶことのできるところまで来たようだ。】(2009年度版『真宗の生活』12ページより)

 書かれたのは専修学院長の狐野秀存先生である。
 つまり、私の母校の恩師である。
 
 親鸞の事は当然、知っている。が、その『親鸞』を『宗祖としての親鸞聖人』としているのか?と聞かれると、私には答えられない。狐野先生達、多くの念仏者達が『宗祖としての親鸞聖人』として出会われているから、私もその先生たちの教えを聞いて行こうとはするが、本当に「宗祖としての親鸞聖人になっているのか?」と聞かれると、黙らざるを得ない。
 知識や教養としての『親鸞』なら知っているが、『宗祖としての親鸞聖人』としては黙らざるを得ない。

 『ごかいさん』と北陸辺りでは云うらしい。北陸の爺ちゃん、婆ちゃんなんぞは「ごかいさん」「親鸞聖人」と呼ぶ人が多いのであろう。
 その人達よりもひょっとすると今の私の方が知識や教養では詳しいかも知れない。でも、どうなのだろうか?知識や教養で詳しかろうとも、私には『宗祖としての親鸞聖人』と呼ぶ事は難しい。
 でも、きっと、形だけ僧侶の格好をして念仏申す私であっても、そういう人達から『同じ念仏者』として接して頂ける。
 そういう人達が呼ぶ『宗祖としての親鸞聖人』との出会いへの道を今は歩ませて頂いているだけである。

 ちなみに真宗仏教、っちゅうか、『ただ念仏』は

【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。
 それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。
 もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。
 もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。
 もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。
 もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。
 それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』より)

 である。