坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

如来御恩の徳

2008年11月03日 | 坊主の家計簿
 先に10月〆

 一般会計         142422円
 古本振込           9035円
 ネット代           4410円
 携帯電話           3786円
 電気代(9月分)       3700円
 水道代            7205円
 ガス代(10月分)      3274円
 国民健康保険        30200円
 家賃            32430円
 医療保険           4740円

 合計           241202円
 これに一括払いの年金の月割り14109円をプラスすると
              255311円
 


 11月3日

 外食  天ぷら蕎麦      326円
 雑費  ココア        157円
 食類  はまち        199円

 合計             682円
 11月累計         7560円

 報恩講準備。
 うい~。。。疲れた。

 柔道・石井選手がついにプロ転向を決定したらしい。ん?『。』はおかしいか。『!』とか『♪』やな。素材はピカ一である。なんせ柔道の金メダリストであり、かつ、年齢も21歳である。現役の金メダリストである。これからの総合格闘技が増々楽しみになって来た。

 プロ転向。
 え~。。。私は6年になるのかな?2002年に専修学院別科を卒業してからプロになったわけだし、得度してからは12年だが、プロとしては6年ちょいか。
 あ、この場合の『プロ』とは、『仏教徒としての仕事でメシを食べている』っちゅう意味合いで。
 『布施』という言葉は真宗には相応しくないと思うが、まあ、『念仏の御こころざし』を預かって生活している。
 多くの人達の生活資金の中から、私は『念仏の御こころざし』を預かって生活している。
 「どうかこのお金でもって、念仏申す生活をして下さい」と。
 御仕事だったり、年金だったりするのだろうが、そうやって得たお金を外の事に使うのでなく、私たち『プロ』に預けて下さる。

 布施とは本来『布施行』である。布施をする側の執着心の課題である。布施行である。仏教学ではそうなっている。でも、そういや、恩師は『布施行』について語られていたのだろうか?と、ふと疑問に思う。語られていたのかも知れないが、「布施とは法施(仏法を施す)に対するものです。法施がなければ、それは泥棒です」と語られていた事だけは憶えている。

 故・和田先生は、確か私が最初に法話を聞いた時から「これが最後かも知れません」と語って居られた。確かにお爺ちゃんだったし。でも、確か和田先生は法話の時間を守らない事でも有名であった。3時間ぐらい法話をしておられた時もあった。専修学院時代では靖国問題の特別講師として来て頂いたはずだが、あの時もチャイムが鳴っても、つまり完璧時間オーバーをして語られていた。
 所属寺の大番頭は、坊主バーの坊主スタッフ時代に、カウンターの中に居ている私が気を使って「明日の仕事、大丈夫なんですか?」と聞いたら、「今の方が大事や」と、深夜2時を過ぎても語られていた。

 報恩講の最後には

【如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳もほねをくだきても謝すべし】

 という和讃(声明の詞)を読む。
 この『べし』とは

【「当然の意を表す。・・・して当然だ。・・・するはずだ」の意味において、この「報ずべし」「謝すべし」の「べし」がひびいてくるのです。】(宮城先生『和讃に学ぶ』”如来大悲の恩徳は”の章より)

 であるらしい。
 当然の事をしている人達からは「あいつ等は何もしない坊主だ!」等という言葉は出て来ないと思う。

【私たちは、その人の在り方を否定するときには、同時にその人の存在そのものを見限り、見放し、見棄ててしまうのが普通でしょう。あんな奴はもう駄目だ、全くどうしようもない奴だというように。
 しかし仏は、その在り方を徹底して否定し、その在り方を深く悲しみながら、しかもその存在をありのままに受けとめていかれるのです。その在り方を否定しながら見棄てられない、そこに悲心があるのです。文字通り、引き裂かれつづける心です。その呻きの底から、深い願心が起されているのです。人が迷うなら、。その迷いをどこまでも共にしよう、人が苦悩の淵に沈むならば、自分も共に沈もうとされる心であります。
 そして、そのような深い悲しみと共にどこまでも迷いを共にしてくださる心にふれるとき、人ははじめて自分の在り方を省み、悲嘆する心を呼びさまされるのです。「如来大悲」は、私にむかってはたらきつづけて下さる願心にほかならないのです。だからこそ、その願いに応えずにおれない歩みとして、知恩報徳の姿があるのです。】(宮城先生『和讃に学ぶ』”如来大悲の恩徳は”の章より)