11月27日
外食 回転寿司 439円
食類 諸々 715円
黒霧島 1580円
雑費 散髪 2000円
コピー 2000円ぐらい
合計 6734円
11月累計 93390円
ちょい、バタバタとしてます。
と云う事で、メモ。というか、打ち込み作業。
【菩薩もかくのごとし。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾闥婆 乃至 声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る。】(龍樹『十住毘婆沙論・入初地品』より。但し真宗聖典162ページより)
【なぜ歓喜なのかという時に、「如来の家に生まれる」ということが成り立ったからだということです。しかも、「如来の家」というのは、それは単に如来を親とする家ということではなくて、「如来を生み出す家」だということなんです。「如来を生み出す家」、そういう家に生まれたのだということです。これは僧伽です。僧伽に身を置くということは、その僧伽に身を置いた者が同時に、実は如来として生みだされて行く、生産されていくという、そういう意味をもっているということです。そういったことが、この「歓喜」ということの大きな意味として見られています。特にその「如来の家」のところでは、「この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る」ともあります。だから「家」というのは「世間道を転じて出世間道に入らせる」という、そういう働きを家はするのだと、だから「歓喜」なのだということが、はっきりとおさえられてあることです。】(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』38~39ページより)
【常に仏がたを信じ敬えば、大いなる供養をすることになる。大いなる供養をすれば、その人は仏の不思議を信じる人である。常に尊い法を信じ敬えば、仏の教えを聞いても飽きることがない。仏の教えを聞いて飽きることがなければ、その人は法の不思議を信じる人である。常に清らかな僧を信じ敬えば、信心が退転しない。信心が退転しなければ、その人の信の力はゆるぐことがない。信の力がゆるぐことがなければ、心のはたらきが清らかですぐれたものになる。心のはたらきが清らかですぐれたものになれば、善知識に親しみ近づくことができる。善知識に近づくことができれば、広大な善根を積むことになる。広大な善根を積めば、その人はさとりを開く因となる力を成就する。人がさとりを開く因となる力を成就すれば、間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得る。間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得れば、仏がたに護られる。仏がたに護られるなら、菩提心をおこすことができる。菩提心をおこせば、仏の功徳を修めることができる。仏の功徳を修めれば、如来の家に生まれることができる。如来の家に生まれることができれば、そこでの善は利他のはたらきをする。利他のはたらきをすれば、信楽の心が清らかになる。信楽の心が清らかになれば、この上なくすぐれた心を得る。この上なくすぐれた心を得れば、常に菩薩の行を修める。常に菩薩の行を修めれば、大乗の法に身をそなえることができる。大乗の法を身にそなえることができれば、正しく仏を供養することができる。正しく仏を供養すれば念仏の心が動揺しない。念仏の心が動揺しなければ、常に数限りない仏がたを見たてまつる。常に数限りない仏がたを見たてまつれば、如来は永久に不変であることを知る。如来が永久に不変であることを知れば、さとりの法が不滅であることを知る。さとりの法が不滅であることを知れば、自由自在な弁舌の智慧を得ることができる。自由自在な弁舌の智慧を得ることができれば、広大無辺の法を説き述べることができる。広大無辺の法を説き述べることができれば、慈しみの心から衆生を救うことができる。慈しみの心から衆生を救うことができれば、堅固な慈悲の心を得る。堅固な慈悲の心を得れば、奥深い教えを喜び味わうことができる。奥深い教えを喜び味わえば、迷いの罪を離れることができる。迷いの罪を離れることができれば、おごり高ぶりやなまけの心を離れる。おごり高ぶりやなまけ心を離れるなら、すべての人々を残らず救うことができる。すべての人々を残らず救うことができれば、迷いの世界にいて疲れることはない。」】(『華厳経・賢首品』より。但し真宗聖典230~232ページより。現代語訳は本願寺出版社・現代語訳『顕浄土真実教行信証文類』209~212より)
【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)
外食 回転寿司 439円
食類 諸々 715円
黒霧島 1580円
雑費 散髪 2000円
コピー 2000円ぐらい
合計 6734円
11月累計 93390円
ちょい、バタバタとしてます。
と云う事で、メモ。というか、打ち込み作業。
【菩薩もかくのごとし。初地を得已るを「如来の家に生まる」と名づく。一切天・龍・夜叉・乾闥婆 乃至 声聞・辟支仏等、共に供養し恭敬するところなり。何をもってのゆえに。この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る。】(龍樹『十住毘婆沙論・入初地品』より。但し真宗聖典162ページより)
【なぜ歓喜なのかという時に、「如来の家に生まれる」ということが成り立ったからだということです。しかも、「如来の家」というのは、それは単に如来を親とする家ということではなくて、「如来を生み出す家」だということなんです。「如来を生み出す家」、そういう家に生まれたのだということです。これは僧伽です。僧伽に身を置くということは、その僧伽に身を置いた者が同時に、実は如来として生みだされて行く、生産されていくという、そういう意味をもっているということです。そういったことが、この「歓喜」ということの大きな意味として見られています。特にその「如来の家」のところでは、「この家、過咎あることなし。かるがゆえに世間道を転じて出世間道に入る」ともあります。だから「家」というのは「世間道を転じて出世間道に入らせる」という、そういう働きを家はするのだと、だから「歓喜」なのだということが、はっきりとおさえられてあることです。】(竹中智秀『いのちの願いに聞く七章』38~39ページより)
【常に仏がたを信じ敬えば、大いなる供養をすることになる。大いなる供養をすれば、その人は仏の不思議を信じる人である。常に尊い法を信じ敬えば、仏の教えを聞いても飽きることがない。仏の教えを聞いて飽きることがなければ、その人は法の不思議を信じる人である。常に清らかな僧を信じ敬えば、信心が退転しない。信心が退転しなければ、その人の信の力はゆるぐことがない。信の力がゆるぐことがなければ、心のはたらきが清らかですぐれたものになる。心のはたらきが清らかですぐれたものになれば、善知識に親しみ近づくことができる。善知識に近づくことができれば、広大な善根を積むことになる。広大な善根を積めば、その人はさとりを開く因となる力を成就する。人がさとりを開く因となる力を成就すれば、間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得る。間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得れば、仏がたに護られる。仏がたに護られるなら、菩提心をおこすことができる。菩提心をおこせば、仏の功徳を修めることができる。仏の功徳を修めれば、如来の家に生まれることができる。如来の家に生まれることができれば、そこでの善は利他のはたらきをする。利他のはたらきをすれば、信楽の心が清らかになる。信楽の心が清らかになれば、この上なくすぐれた心を得る。この上なくすぐれた心を得れば、常に菩薩の行を修める。常に菩薩の行を修めれば、大乗の法に身をそなえることができる。大乗の法を身にそなえることができれば、正しく仏を供養することができる。正しく仏を供養すれば念仏の心が動揺しない。念仏の心が動揺しなければ、常に数限りない仏がたを見たてまつる。常に数限りない仏がたを見たてまつれば、如来は永久に不変であることを知る。如来が永久に不変であることを知れば、さとりの法が不滅であることを知る。さとりの法が不滅であることを知れば、自由自在な弁舌の智慧を得ることができる。自由自在な弁舌の智慧を得ることができれば、広大無辺の法を説き述べることができる。広大無辺の法を説き述べることができれば、慈しみの心から衆生を救うことができる。慈しみの心から衆生を救うことができれば、堅固な慈悲の心を得る。堅固な慈悲の心を得れば、奥深い教えを喜び味わうことができる。奥深い教えを喜び味わえば、迷いの罪を離れることができる。迷いの罪を離れることができれば、おごり高ぶりやなまけの心を離れる。おごり高ぶりやなまけ心を離れるなら、すべての人々を残らず救うことができる。すべての人々を残らず救うことができれば、迷いの世界にいて疲れることはない。」】(『華厳経・賢首品』より。但し真宗聖典230~232ページより。現代語訳は本願寺出版社・現代語訳『顕浄土真実教行信証文類』209~212より)
【今後あなた方がお二人によって作られる家が、いかなるものに向っても等しく開放され、いかなるものをも歓んで迎え容れるというような、そんな広やかな、そんな温かい、そんな文字通りの「如来の家」として新しく創り出されるであろうことを、私は学院に学ばれたお二人の上に、秘かに期待しないではいられぬからなのです。】(信国淳『一蓮托生の生活』より)