坊主の家計簿

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南無阿弥陀仏の結婚式 その3『家の宗教から個の自覚へ』

2008年11月14日 | 南無阿弥陀仏の結婚式
 11月14日

 雑費  タコ焼          300円
     ジャスミン茶       320円
     居酒屋         5330円

 合計              5950円
 11月累計          44956円

 あれは確か、辺見庸の『ゆで卵』っちゅう本に入ってた短編だったと思うのだが、『タコの頭』を買った女性の話が載ってた。とっくに古本屋行きなので手元にないのだが、確か、タコの頭を買った女性をナンパしようとした話だった。
 その女性は、それに対して「NO!』と云った。
 確か、職場においても、人生においても『NO!』と云えない人の苦悩を描いた短編だったと記憶している。

 ある尊敬する同朋は
 『決められたレールなんてなかった』
 と云った。
 当り前である。決められたレールなんて『幻想』にしか他ならないのだ。

 「私はこういう風に生きなければダメ!」なんぞというのは、決められたレールなんだろうが、そんなものはないのだ。どこにもない。一切ない。そういうのを『鬼神』と云ったりする。ないにも関わらず、『ある』事を前提として考えて居る。その『考えて居る』事が、『鬼神』の再生産に繋がり、『鬼神』を認める事になる。
 そんなものはないのだ。

 「こんな事を云ったらきっときらわれる」
 とは『思い』でしかない。そんな事は発言してみないと解らない。
 また、発言した時に拒否されたと云っても、それが普遍的な事であるわけがない。ただ単に、その状況下において否定されただけである。

 「でも。。。」
 と、思う。
 「でも。。。やっぱり。。。」である。
 でも、やっぱり、認めて呉れない人が多くいると、自分の意志を引っ込める。そしてありもしない幻想の『世間』というものに自分を託す。
 そして『世間』が出来上がる。
 「これはこういう事なのだ。」と。
 でも、「これはこういう事なのだ。私は違うと思うが、世間ではこういう事になっているのだ」と。
 自己が不在である。つまり、他人任せである。世間任せである。
 責任者は自分ではない。あくまでも『世間』である。

 生きているのは他でもなく自分自身でしかない。決して『世間』という『鬼神』が先行して生きているわけではない。生きているのは自分自身でしかない。

 しゃて、結婚式。
 日本国憲法にも

【第24条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。】

 とある。
 それは逆に云うと、いかにそれが出来ていないか、という話でもある。
 結婚するのはあくまでも結婚する当事者同士でしかない。まあ、ジェンダーフリーの中で『両性』という言葉は不適格であると思うが、当事者同士の意志が尊重されなければならない。

 『個人』よりも『家』が先に立つのならば仏前結婚式に相応しいわけがない。