11月22日
1円も使ってません。
11月累計 75740円
と云う事で、『信長の野望ダイエット』を決行中。
ゲームをいちからやり直して、速攻、足利領に侵攻して、さっさとブチ殺す。ふっふっふっふ。ざまーみろ、昨日の怨みじゃ。
しっかし、仕事以外はゲームしかしないと脳味噌も弛むのぉ。。。『テレビ』というもんが、どれだけ刺激あるものかがよく解る。なんせ、ニュースにしても、バラエティーにしても、生身の人間が出て来るし、私は観ないがアニメなんぞも誰かが作って居るものだし。
当然、ゲームだって誰かが作って居るのだろうが、やっぱし一日中ダラダラとテレビを見てても何らかの世間の動きから問われて来るものがあるのだが、ゲームは小さい画面のソフトの中だけの世界やし。世の中で何が起きようが、「浅井も朝倉も強いのぉ。。。」の方が重大になって来る。
って、ここまで書いて思うのだが、別にゲームの中だけの話ちゃうな。『私』を中心とする『私だけの世界』なら、まあ、なんちゅうんですか?『家内安全』とでも書いとくが、『家内安全』だけならば、つまり『家内』の安全しか、求めないのであれば、世の中は二の次である。
『家』の事が大事で、世の中の事は二の次である。
『私』が大事なら『他人』は二の次である。
おお!私はゲームをしなくても、ゲームの生活をしているではないか!
まあ、『バーチャル』っちゅうヤツでんな。
親鸞には
【弥陀の報土をねがうひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするることなかれ】
っちゅう和讃(詩)がある。
この『弥陀の報土をねがうひと』は、恩師曰く『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう意味らしい。『寤寐』とは、『寝ても覚めても』ちゅう意味らしい。
んが、私の生活は、別に『信長の野望』をしてなくとも、決して『みんなと一緒に生きたい!』と云う実態とは遠くかけ離れている。
まあ、故に『本当の願い』なんだろうが。
ゲームをしたりする、日常の願いは「私さえ良ければイイ」なんだが、それでも、私の心の奥底にある本当の願いは『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう願いのはずである。
まあ、なんちゅうんですか?「寂しい」ちゅう感情はあるし。
「寂しい」にも色んな段階があって、最強の寂しさは「誰でもエエから私に反応してくれ」ちゅう事なんだろうし。
死んだら誰にも会えない。生きているから『誰か』に会える。誰かが反応してくれる。
つまり、無視されない。誰かが何らかの反応を示してくれる。
それだけでも『有り難い』のだが、当然、んな事、日常で思うわけがない。日常で思うのは『好かれたい人』『キライな人』『どうでもエエ人』なんぞと区分しているわけだし。イヤな反応は、んなもん『イヤ!』に決まっている。余程、孤独の極致にある人以外は、イヤに決まっている。
ふと、良寛を思い出す。孤独を愛した人なんだろうが、逆に『人との出会い』を大切にした人。
そういや、恩師から紹介して頂いた尾崎放哉ちゅう人も居る。
【咳をしても一人】
なんぞのけったいな句を読む人。
『独り』だから、『ふたり』になる事が奇跡みたいな事。
『独り言』でなく、『会話』が出来る事が奇跡みたいな事。
今日、11月22日は『いい夫婦の日』らしい。
『ふたり』で居る事が『当り前』なら、『有り難い』とは思えない。都合のイイ事にだけ『有り難い』と思う。『独り』でない事を『有り難い』とは思えなくなる。
【「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】 (ダンマパダより)
私はワガママであり、そして、多くの人達も私と同じくワガママであると思う。決して孤独でなく、ワガママの中で孤独に陥っている。
昔に、ある先輩がこんな事を云った事がある。
「今日、電車に乗っててビックリしてんけど、隣に座っている人の事を俺は人間と思ってなかった」
と。
『人間』を『風景』として『眺めていた』と。
自分がバーチャルな世界に生きている事に気づいたからビックリしはったのだろう。
生きている事は奇跡みたいな事だと思う。
けど、それが『当り前』になっている。
1円も使ってません。
11月累計 75740円
と云う事で、『信長の野望ダイエット』を決行中。
ゲームをいちからやり直して、速攻、足利領に侵攻して、さっさとブチ殺す。ふっふっふっふ。ざまーみろ、昨日の怨みじゃ。
しっかし、仕事以外はゲームしかしないと脳味噌も弛むのぉ。。。『テレビ』というもんが、どれだけ刺激あるものかがよく解る。なんせ、ニュースにしても、バラエティーにしても、生身の人間が出て来るし、私は観ないがアニメなんぞも誰かが作って居るものだし。
当然、ゲームだって誰かが作って居るのだろうが、やっぱし一日中ダラダラとテレビを見てても何らかの世間の動きから問われて来るものがあるのだが、ゲームは小さい画面のソフトの中だけの世界やし。世の中で何が起きようが、「浅井も朝倉も強いのぉ。。。」の方が重大になって来る。
って、ここまで書いて思うのだが、別にゲームの中だけの話ちゃうな。『私』を中心とする『私だけの世界』なら、まあ、なんちゅうんですか?『家内安全』とでも書いとくが、『家内安全』だけならば、つまり『家内』の安全しか、求めないのであれば、世の中は二の次である。
『家』の事が大事で、世の中の事は二の次である。
『私』が大事なら『他人』は二の次である。
おお!私はゲームをしなくても、ゲームの生活をしているではないか!
まあ、『バーチャル』っちゅうヤツでんな。
親鸞には
【弥陀の報土をねがうひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするることなかれ】
っちゅう和讃(詩)がある。
この『弥陀の報土をねがうひと』は、恩師曰く『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう意味らしい。『寤寐』とは、『寝ても覚めても』ちゅう意味らしい。
んが、私の生活は、別に『信長の野望』をしてなくとも、決して『みんなと一緒に生きたい!』と云う実態とは遠くかけ離れている。
まあ、故に『本当の願い』なんだろうが。
ゲームをしたりする、日常の願いは「私さえ良ければイイ」なんだが、それでも、私の心の奥底にある本当の願いは『みんなと一緒に生きたい!』ちゅう願いのはずである。
まあ、なんちゅうんですか?「寂しい」ちゅう感情はあるし。
「寂しい」にも色んな段階があって、最強の寂しさは「誰でもエエから私に反応してくれ」ちゅう事なんだろうし。
死んだら誰にも会えない。生きているから『誰か』に会える。誰かが反応してくれる。
つまり、無視されない。誰かが何らかの反応を示してくれる。
それだけでも『有り難い』のだが、当然、んな事、日常で思うわけがない。日常で思うのは『好かれたい人』『キライな人』『どうでもエエ人』なんぞと区分しているわけだし。イヤな反応は、んなもん『イヤ!』に決まっている。余程、孤独の極致にある人以外は、イヤに決まっている。
ふと、良寛を思い出す。孤独を愛した人なんだろうが、逆に『人との出会い』を大切にした人。
そういや、恩師から紹介して頂いた尾崎放哉ちゅう人も居る。
【咳をしても一人】
なんぞのけったいな句を読む人。
『独り』だから、『ふたり』になる事が奇跡みたいな事。
『独り言』でなく、『会話』が出来る事が奇跡みたいな事。
今日、11月22日は『いい夫婦の日』らしい。
『ふたり』で居る事が『当り前』なら、『有り難い』とは思えない。都合のイイ事にだけ『有り難い』と思う。『独り』でない事を『有り難い』とは思えなくなる。
【「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。ーーーこのことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。】 (ダンマパダより)
私はワガママであり、そして、多くの人達も私と同じくワガママであると思う。決して孤独でなく、ワガママの中で孤独に陥っている。
昔に、ある先輩がこんな事を云った事がある。
「今日、電車に乗っててビックリしてんけど、隣に座っている人の事を俺は人間と思ってなかった」
と。
『人間』を『風景』として『眺めていた』と。
自分がバーチャルな世界に生きている事に気づいたからビックリしはったのだろう。
生きている事は奇跡みたいな事だと思う。
けど、それが『当り前』になっている。
と言ってもずっと読ませて頂いておりますので、ぴったり背後には潜んでいるわけですが^^/
連帯を求めて 孤立を怖れず・・なんて古い言葉があったなと、ふと思ったものですから登場いたしました^^
古い時代と、今とで、大きく変わったのって『議論のあるなし』だと思うんですよ。古い時代の若者って真剣に議論してましたやん。それこそ、孤立を怖れずに。