11月9日
雑費 缶コーヒー 120円
散髪 2000円
食類 黒霧島 1700円
醤油 198円
マヨネーズ 158円
焼そば麺 18円
豆御飯 128円
合計 4322円
11月累計 37196円
ああ、夕日ってなんて優しいんだ。。。
と云う事で、ボロ雑巾状態。
少し仮眠して起きたら、もう、あーた、体が大変でっせ。頭も痛いしやな。
と云う事で、報恩講のビデオを観る。あんまり参考にならん。。。そんな別院みたいな事やってる寺は大阪にあるのか?
んが、体がダルいので布団に入りながらビデオ見学。
のち、気合いが入ったので雑用。
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、或いは教団の命脈を保とうとしてきたといわねばならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはなだし生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳「呼応の教育」より)
ある専修学院の先生が某所で講演した時に語って居られたのだが、お寺で産まれ育った多くの方々は仏教が面白くないらしい。「それは一番身近な存在である『父=住職』が仏教に出会った事を喜んでいないからだ。」みたいな事を仰ってた。
「でも、学院に来たら違う。仏教に出会って活き活きとして居られる方々の姿を観て衝撃を受けるのだ」と。当然、御自身の体験談だったんだろう。
信国淳先生は念仏馬鹿だったらしい。聞く所に寄るとトイレで小便しながら隣で小便してる人に念仏の話をしてたらしい。
それで思い出したのだが、ある先生は、先輩が冬場トイレでウンコしている時にトイレの窓を開けた事に腹を立てて
先生「こら!なんで窓を開けたんじゃ!」
先輩「いや、臭いですやん」
先生「アホかこら!ウンコは臭いもんなんじゃ!出て来いコラ!!!」
とドアを蹴り出したらしい(笑)
そんな話を体験者である先輩から聞いた事があって、若干変化しているかも知れないが、いまだに忘れられない。
九州・熊本にある某寺。「誰でも来なさい」と云う寺。
一度遊びに行って、数日お世話になったのだが、その初日の晩。その寺のお婆ちゃんが食事の時に、気を使って愛想笑いしたり、笑かそうとしたりしてた時に
「あんな、あんた。ここではそんな事せんでもエエねんで」
当然、熊本訛りだが、受けとったのは私なので関西弁になってます。
私は『よゐこ』である。
だから
【はなはなだし生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳「呼応の教育」より)
と云う言葉を聞くと反射的に自己防御に向かい
「いや、俺は。。。」
になる。
で、言い訳する為に、上記の文章を書いただけ。
「私は先輩達からこういう話を聞きましたし、また、こういう体験をしました」って。
「自我とは、したたかなものですよ」とは竹中先生がよく云ってたな。
そういや、そういう事に対して「はい」って答えたら、「そう簡単に云えるものじゃないでしょう」とか、って云ってたな。『仏かねてしろしめして』っちゅうやつやな。
よゐこでっせ、よゐこ。
徹底的に自己保身をして、自己保身の為には被差別者すら利用してしまうのが『よゐこ』でっせ。他人の事等どうでもエエにも関わらず『共に生きる』事を標榜し、『出来る』『出来ない』でまた人を判別してしまうのが『よゐこ』でっせ。
『善人は居場所を与えられ、悪人は居場所を奪われる』
とは竹中先生がよく云ってた言葉だが、ちなみに『ぜんにん』ではなく『でんにん』と。。。まあ、エエのだが、よく云ってはったな。
よゐこは、居場所を奪う。
自分の居場所も、他人の居場所も。
と、某学習会の案内を作った後に飲みながら思う。
雑費 缶コーヒー 120円
散髪 2000円
食類 黒霧島 1700円
醤油 198円
マヨネーズ 158円
焼そば麺 18円
豆御飯 128円
合計 4322円
11月累計 37196円
ああ、夕日ってなんて優しいんだ。。。
と云う事で、ボロ雑巾状態。
少し仮眠して起きたら、もう、あーた、体が大変でっせ。頭も痛いしやな。
と云う事で、報恩講のビデオを観る。あんまり参考にならん。。。そんな別院みたいな事やってる寺は大阪にあるのか?
んが、体がダルいので布団に入りながらビデオ見学。
のち、気合いが入ったので雑用。
【正直にいって我々の教団は、仏教の力を借りることにより、人間が人間を教育できるもののように錯覚し、それで人を教化しようとしてきたのでありますし、しかもそれによって教団自身のエゴイズムを満たそうとし、或いは教団の命脈を保とうとしてきたといわねばならぬものがあるのであります。そしてその結果が、今日の教団に見られるような、はなはなだし生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳「呼応の教育」より)
ある専修学院の先生が某所で講演した時に語って居られたのだが、お寺で産まれ育った多くの方々は仏教が面白くないらしい。「それは一番身近な存在である『父=住職』が仏教に出会った事を喜んでいないからだ。」みたいな事を仰ってた。
「でも、学院に来たら違う。仏教に出会って活き活きとして居られる方々の姿を観て衝撃を受けるのだ」と。当然、御自身の体験談だったんだろう。
信国淳先生は念仏馬鹿だったらしい。聞く所に寄るとトイレで小便しながら隣で小便してる人に念仏の話をしてたらしい。
それで思い出したのだが、ある先生は、先輩が冬場トイレでウンコしている時にトイレの窓を開けた事に腹を立てて
先生「こら!なんで窓を開けたんじゃ!」
先輩「いや、臭いですやん」
先生「アホかこら!ウンコは臭いもんなんじゃ!出て来いコラ!!!」
とドアを蹴り出したらしい(笑)
そんな話を体験者である先輩から聞いた事があって、若干変化しているかも知れないが、いまだに忘れられない。
九州・熊本にある某寺。「誰でも来なさい」と云う寺。
一度遊びに行って、数日お世話になったのだが、その初日の晩。その寺のお婆ちゃんが食事の時に、気を使って愛想笑いしたり、笑かそうとしたりしてた時に
「あんな、あんた。ここではそんな事せんでもエエねんで」
当然、熊本訛りだが、受けとったのは私なので関西弁になってます。
私は『よゐこ』である。
だから
【はなはなだし生命力の枯渇の事実であります。】(信国淳「呼応の教育」より)
と云う言葉を聞くと反射的に自己防御に向かい
「いや、俺は。。。」
になる。
で、言い訳する為に、上記の文章を書いただけ。
「私は先輩達からこういう話を聞きましたし、また、こういう体験をしました」って。
「自我とは、したたかなものですよ」とは竹中先生がよく云ってたな。
そういや、そういう事に対して「はい」って答えたら、「そう簡単に云えるものじゃないでしょう」とか、って云ってたな。『仏かねてしろしめして』っちゅうやつやな。
よゐこでっせ、よゐこ。
徹底的に自己保身をして、自己保身の為には被差別者すら利用してしまうのが『よゐこ』でっせ。他人の事等どうでもエエにも関わらず『共に生きる』事を標榜し、『出来る』『出来ない』でまた人を判別してしまうのが『よゐこ』でっせ。
『善人は居場所を与えられ、悪人は居場所を奪われる』
とは竹中先生がよく云ってた言葉だが、ちなみに『ぜんにん』ではなく『でんにん』と。。。まあ、エエのだが、よく云ってはったな。
よゐこは、居場所を奪う。
自分の居場所も、他人の居場所も。
と、某学習会の案内を作った後に飲みながら思う。
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