坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

内懐虚仮

2013年02月04日 | 坊主の家計簿
渡邊芳之先生@ynabe39の「「恵方巻きなんて10年くらい前まで誰も食べていなかった」ということも言わないとみんな「日本の古き良き伝統」だとか思い始めるぞ。」 http://togetter.com/li/449467



『恵方巻きを食べて来なかった日本の古き良き伝統』はどうなるのだろうか?やはり10年ぐらいしたら、そういう個人史(あるいは御先祖様からの伝統)は忘却されるのだろうか?

真宗門徒に節分は無関係である。いや、『無関係』はおかしいか。世間での「鬼は外、福は内」を聞きながら、都合の悪いものを排除しようとしている自分自身に出会い、念仏申す機縁になる。そういう意味では無関係はおかしいが、「鬼は外、福は内」を肯定するわけではない。あくまでも「えらばず・きらわず・みすてず」の阿弥陀如来の精神が根本である。その精神で救われた(存在価値を得られた→生きていける)が故に、節分はしないのが『真宗門徒の古き良き伝統』ではないのか?

本願史観。

例えば橋下市長を鬼にする。あるいは体罰教師を鬼にする。「鬼は外、福は内」と、排除しようとする。豆でも銃弾でも権力でもデモでも、何らかの行動(発言)で都合の悪い事を排除しようとする。そこに生身の人間はいるのか?互いに生身の煩悩具足の凡夫という人間観はあるのか?排除でなく、共に苦しみ悩み、許し合い、見守りつつ、というのが大事だのではないのか?権力で排除する。体罰で排除する。キレイキレイになって、じゃあ、あんた誰?何様?


【イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 】
(ヨハネ8ー1~11)


【このごろは、自分こそが真の念仏者だというような振る舞いをして、善人だけが念仏することができるかのように考え、例えば、念仏の道場に、禁止事項を書いた紙を貼り、「○○のことをしたものは、道場に入ってはならない」などということは、ただただ外見には真面目な念仏の行者を装って、内心には虚きよ偽ぎをいだいているものではないのか。たとえ、本願に甘えて犯した罪であっても、それは人間には知り得ないほど深い必然性の作用なのである。】
(歎異抄第十三条より)


【親鸞聖人が、弾圧するものに対して、晩年のお手紙にもございますけれども、念仏をさまたげるものをけっして憎んではならないと。そのもののために祈れ、といっておられます。念仏をさまたげるものは、外道性において生きておるという点では私も一緒だと、なんにも変わらない。われわれは、すぐにそれを敵とする。そうではなしにまったく一緒なんだと、ただそのことにナンマンダブツしておるか、していないかの違いだけなんだと。じつは、そのことが、決定的な違いなんですけれども、しかし、自己の外道性ということについては、なんら変わらんのです。】(和田稠『出離その期なし』186ページより)

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