「そのままの救い」といっても、「そのまま」救われたくないのが私たちではないのか?
「念仏申してないと救われないの」とは、自分に対してはともかく、故人が念仏申していたのかどうかなど知る由もない。
まあ、その人としての人生の最後の条件として「念仏申していた」かどうかを救いの条件として切り裁いていまうのも如何がなものか。
そうやって切り裁いている「私」が抜け落ちている。
世の人たちの人生を無視して、最後の最後まで「あの人は念仏申していなかった」云々というのは如何がなものか。
そういう切り裁いている私がそのまま救わらるのではない。「そのままの救い」であるが故に、「そのまま」を認められない私が問題になるのだ。
仏教の救いは忘我では決してない。忘我だけなら、麻薬でも吸えばいい。脳内麻薬でも出せばいい。そんなものは仏教という名に値しない。
徹底して私が問わらる。
流転輪廻するのが凡夫の自体でたる。その凡夫を徹底して認めようとせずに、ありもしない妄想から人を裁く。
その裁く資格を奪うのが念仏である。裁いていた自己を徹底して問題にするのが念仏である。
「念仏申してないと救われないの」とは、自分に対してはともかく、故人が念仏申していたのかどうかなど知る由もない。
まあ、その人としての人生の最後の条件として「念仏申していた」かどうかを救いの条件として切り裁いていまうのも如何がなものか。
そうやって切り裁いている「私」が抜け落ちている。
世の人たちの人生を無視して、最後の最後まで「あの人は念仏申していなかった」云々というのは如何がなものか。
そういう切り裁いている私がそのまま救わらるのではない。「そのままの救い」であるが故に、「そのまま」を認められない私が問題になるのだ。
仏教の救いは忘我では決してない。忘我だけなら、麻薬でも吸えばいい。脳内麻薬でも出せばいい。そんなものは仏教という名に値しない。
徹底して私が問わらる。
流転輪廻するのが凡夫の自体でたる。その凡夫を徹底して認めようとせずに、ありもしない妄想から人を裁く。
その裁く資格を奪うのが念仏である。裁いていた自己を徹底して問題にするのが念仏である。
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