坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

あなたは、あなたで在ればいい(渡辺尚子)

2011年04月27日 | 坊主の家計簿
 お腹が痛い。。。
 今日のお昼御飯はママのスパゲティー。何度かボロクソに言ったせいか、最近ママの料理が明らかに美味しくなって来ている。確かに味は主観だが、主観以前の味もある。ようするに「お前、作る気ないやろ」という料理である。私はこれをエサと呼んでいる。
 家庭料理と外食とは違う。外食はどうしても味が濃くなりがちだし、また、原価が違う。「人様から金を取って商売としてやっていく」のが外食なので、やはり見た目も大事になって来る。パセリなんぞの「殆ど食べて貰えないけど、色合いとして大事」みたいなものも必要となってくる場合が多いが、家庭料理は安くて栄養バランスがしっかりしていて、かつ「そこそこ美味しい」というのが理想だったりする。無茶苦茶美味しいなんぞは必要ない。見た目も、まあ、うちには幼い子どもが居てるので大事になって来るのだろうが、私個人はあまり気にしない。「盛りつけは上に盛り上げる様に」なんぞを求めない。半熟のプレーンオムレツも求めない。アルデンテのスパゲティーも求めない。ただ、そこそこ美味しければいいのだ。
 料理が下手なら、レシピを見ればイイ。ネットでタダで落ちている時代である。最初はスタンダードに真似る所から始めて、応用をかましていけばイイ。高い材料を辞めて行けばエエだけの話だったりする。また、冷蔵庫の余り物を工夫して使って行けばイイ。味付けや熱の量を「どうでもエエやんけ」にならなければエサにはならない。エサは「どうでもええやんけ」の料理である。愛がない。愛情のない料理屋は潰れるし、家庭料理で限られた時間、限られた材料費、限られた調理器具であっても愛情さえあれば「食べて貰いたい」だったり、あるいは「これが私の仕事なのだ」という自覚させあれば、まあ、エサにはならない。
 という事で、メキメキ腕を上げつつあるママの昼ご飯のスパゲティー。仕事が終わる時間の都合で「先に作って置いといて」だったのだが、え~。。。量、多すぎ。多すぎだったのだが、食べると美味しかったので、残さず全部食べてしまったのだが、お腹が(笑)ちなみに頂き物の味付け海苔が大量にあって「これでなんか作って食べんと」と言うと、晩御飯には海苔の佃煮になって出て来た。結構、美味。無くなったら次は『味付け海苔のタ食べるラー油』をリクエストしよ。なに、細かく切った味付け海苔に、熱した唐辛子入り胡麻油(好みでサラダ油混ぜても可)をかけて保存しとけばエエだけの話だ。塩分が足りなければ後から足せばエエだけの話やし。

 という事で、お腹が痛い。
 というか、昨日もお腹が痛かったわけなんだし、日曜深夜に激辛担々麺なんぞを食べるから問題であってでんなぁ。。。

 録画していた紳助の駆け込み寺を観る。大阪では4月5日の昼間に放送していて、録画したまま放ったらかしになっていたので、今夜観る。
 「A・高収入で浮気性の彼と、B・貧乏だけど誠実な彼、結婚するならどっちが良いでしょうか?」なんぞの質問。番組では5人のい僧侶がAかBどちらかの意見を述べさせられていたのだが、ありゃ、どっちでもエエやろ、んなもんは。だって、迷っている段階でどっちでも良い。どっちでも良いから迷っているわけであって、だったらどっちでも良い。そんなものに正解はない。ただ、どちらを選ぶにしても必ず「やっぱり向うを選べば良かった」と思う事だけは確かであって、必ず不幸を歎くんだろう。そんな人生を「これが私の人生なんだ」という問題だと思ったりする。
 基本は私が近くの札幌ラーメン屋で「味噌にしようなかぁ。。。塩バターにしようかなぁ。。。あ、醤油もエエなぁ。。。」と迷っているのと同じ。何を食べてもその時の気分次第で「お!やっぱり味噌にして正解やった」にもなるし、気分次第で「やっぱり塩バターにすれば良かった。。。」にもなる。そうやって、気分次第で自分の人生や、周囲を切り裁いて生きているのが紛れもない私であって、その私は他には居ない、誰も代わってくれないし、誰にも代わって貰いたくもない、みたいなもんでっしゃろ、と、激辛担々麺&食べ過ぎ等のせいなのか。お腹が痛い私は思ったりする。当然、「あの時に食べなければ。。。」なんぞとも『思える』わけでんな。私の人生なので。

 で、紳助の駆け込み寺を、飛ばし飛ばしながら観る。最後辺りで「生きているのが辛い」という人生相談。こういうのにも正解はない。相手次第。また、色んな宗派の坊さんが出てたのでそれぞれの宗派によって考え方に違いもあるだろう。
 しかしながら、テレビという公共放送で「言ってはならない事」なんぞもあったりするのだが。それが放送コードに引っかからなくとも、少なくともテレビでは聞きたくない言葉があったりするのだと思ったりするのだが。
 水無昭善という真言系の僧侶が居ている。『真言系』と記したのは、ウキペディア情報によると怪しいみたいなので。だいたい『真言宗』という宗派名がどういう意味を現しているのかは私には解らないし。なので無難に『真言系』と。
 で、その水無昭善氏が、「生きるのが辛い」という悩みに対して「五体満足で生まれて」等と返していた。録画はとっとと消してしまったのでネット検索。

【「五体満足満足で生まれてきたなら、這いつくばってでも生きてみなさいよ!!」】(http://blog.livedoor.jp/vvkurumivv/archives/51345224.html

【五体満足で生まれてきたなら、五体満足で這いずり回ってから、生きている意味を考えて欲しい。】(http://ameblo.jp/career-change-support/entry-10821942558.html

 『五体満足』という言葉をこういう表現方法で使う必要があるのか?

 『差別用語』という定義はない。文部省が「五体満足は差別用語です」なんぞと説明している本を読んだ事はない。それ以外の所が『人権辞典』なんぞを出していても、まあ、それはその団体での認識。
 テレビ局や、マスコミ関係者にも放送禁止用語の一覧なんぞがあるのだろうが、その中に『五体満足』という言葉が入っているのかどうかは知らない。まあ、大阪なら毎日放送(TBS系)には『五体満足』が差別用語や放送禁止用語であるという認識はないのだろう。だから放送したのだろう。また、水無昭善氏にもないのだろう。ないから、五体満足という言葉を使わずとも、単に「生まれて来たなら」でも意図は伝わると思うのだが、あえて『五体満足』という言葉を使うという事は、まあ、その言葉が差別用語であるという認識はないのだろう。
 え~。。。乙武洋匡氏の『五体不満足』という本は結構売れたと思うのだが、まあ、私は読んでないのだが、話題にはなったと思うのだが。。。

 放射能汚染。「チェルノブイリでは奇形児が」とかの情報を見かけるが、放射能汚染の暴力は問題だが、「放射能汚染で障害を持って生まれて来る」だの、「奇形児が生まれて来る」だの、「五体満足で生まれて来ない」だのという、差別発言の汚染はどうなっているのだ?
 なんだ?五体満足で無い事がそんなにイケナイ事なのか?だったら、乙武洋匡氏は「居てはいけない人」「生まれて来てはいけない人」なのか?
 『障害者』という言葉も微妙だが、まあ、「今の世の中では生き難い人」なんだろうが、生き難い環境を作り出している側の責任を問わずして、『五体満足』などという言葉を平気で使ってしまうのは、一体なんなのだ?

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2 コメント

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Unknown (ぐりん)
2011-04-27 09:46:35
紳助のかけこみ寺、見ました…

二極的発想、司会者が嫌い、あまりにくだらない質問に、見る気が失せました。電源オフ!

テレビのお手軽・簡単・バラエティでの放送なので、仕方ない?のかもしれませんが…
出演されている僧侶?の方々を見て、なぜか織田無道氏を何年かぶりで、思い出した次第です。
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Unknown (エロ坊主)
2011-04-28 00:10:24
 思いっきり知っている先輩が一人出てたので気になって録画してたんですが、やっぱりバラエティー番組でしたね。
 でも、若い禅坊主とかも「なんじゃこりゃ!」でしょうね、ありゃ。真面目な人みたいだったし、禅って、思いっきり『空』とかですやん。ですから意見を述べつつも「喋りながら違っている気がしてきました」なんぞと「おお!誠実や!」と感動してました。

 まあ、何度かやって行くうちに形になったりするのでしょうが、紳介、仕切り過ぎ(笑)まあ、紳介が仕切らないとバラエティー番組にならないから仕方がないのでしょうが。
 でも、紳介の発言を聞いていると、特に最後の質問辺りにチラッと言った意見「そういう自分に気付いて行く事が大切」なんぞとチラッと言ったのですが、結構、あの番組をやるに当たって母校の恩師の真宗僧侶なんぞに相談してたり、隠れて聞法してたりして(笑)
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