坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

伝統の味

2008年05月13日 | 坊主の家計簿
 5月13日

 外食  ラーメン         650円
 食類  黒霧島         1580円
     たまご           98円
     発泡酒          107円
 雑費  タバコ          300円

 合計              2735円
 5月累計           48193円

 昨日もなんだが、『食類』って、ほぼ『酒類』やんけ。。。ったく。。。
 &風邪気味やのにやなぁ。。。まあ、「赤ワインは風邪に良い」と、なんとなく思うし別にエエのだが、昨日は赤ワインでヘロヘロの書き込みやな。。。まあ、毎度かも知らんが。

 今日も変わらず体調優れず。風邪薬を飲めば楽なのは解っているのだが、薬はキライなのだ。サプリメントとか、ウコンとかは『食品』だからエエのだが、風邪薬ってなんとなくダメなのだ。出来るだけ風邪薬に頼らずに徐々に治して行こ。

 さっきまで『おせん』を観てた。
 なんか、今回の『おせん』は『おせん』のエエ所と悪い所が凝縮された気になるのぉ。。。
 あ、『おせん』って、蒼井優ちゃん主演の火曜日22時からのテレビドラマね。

 料理は『手』で作るもの。手の味が入る。おにぎりなんぞが最たるものだと思うのだが、作った人の『手』を通して食べるもの。どんなに機械が上手に『手作り風』に仕上げても、生身の人間が作ったのが『おにぎり』である。コンビニで売っているのは厳密には『おにぎり風』と呼んだ方がエエのだと思う。
 『おせん』にはその辺がよく描かれている。テレビドラマだし、『解りやすく』描かれている。初回だったと思うのだが、蒼井優ちゃんが「おいしく、おいしく、おいしくなあれ」と云いながら料理を作る。手作り料理。

 料理だって『関係』。関係を粗末にした『味』なのか、関係を大切にする『味』なのか。
 『おせん』が描き出したいのは、例えば『近代化』等という事でもって、効率化等という事でもって切り捨てられて来た部分。それには当然『料理』だけでなく、日本の伝統的な文化も入る。
 例えば、『おせん』の中で蒼井優ちゃんは和服を着ている。和服なんぞ面倒なものだ。本物の和服は洗濯するのにイチイチ仕立て直しをしなければならない。そういう手間が出来るのは裕福な環境の持ち主。
 じゃあ、和服でないと関係を粗末にしているかと云えばそんな事もない。
 私は自分で洗濯しているが、実家に居た時はオカンが洗濯してたわけだ。よって『洗濯=オカンの味』なのだ。仕上がって来た洗濯物にはオカンの味が染み付いているわけでんな。

 『おせん』は、悪しき民芸運動みたいなものだ。当初の民芸運動は『民』にスポットライトを浴びせたのだろうが、今は単なる金持ちの道楽ではないのか?今の民芸品は100円ショップではないのか?あれだって、中国や、ベトナム等の人達が作って『頂いた』ものである。100円ショップで買ったものだからと粗末にするのはおかしい。それぞれに手がかかっている。人の手がかかっている。
 さっきコンビニのおにぎりを『おにぎり風』と書いたが、『手温もり』『味』を感じたらそんな事はない。どんなものにでも様々な味がある。様々な人を通じて自分の所に届いたわけだ。

 今日はまだ風邪気味。微熱あり。よってイラつく。
 『サハラ 死の砂漠を脱出せよ』を観てたらDVDが途中でエラー連発。もう、イライラし放題。疲れていると余裕がない。そういう気持ちを見つける事が出来ただけでもDVDを見た価値はある。

 味。手の温もり。
 疲れているとそんなもん。排他的になる。ついつい本物の味にこだわり過ぎて、偽物の味を作り出す。本当に本物の味が解れば、あとは好みではないのか。それぞれの味だろう。それぞれを味を見出せないのは疲れているのか、本物の味を知らないのか。

 今日の『おせん』もなんだが、『おせん』を観ていると、漫画『美味しんぼ』に出てたあるシーンを思い出す。
 禅宗の長老が出てくる。禅宗の長老が云う。「カニが高いとか、フグが高いとかというのは娑婆の話」みたいな事を。随分前に読んだので記憶に間違いがあるかも知れんが。。。

 一休さんが『作られた』とされている歌でこんなのがある。
 ただし、これも検索して出て来なかったのでかなり怪しい。よって『とりあえず一休』として。

   人はみな
   欲を捨てよと
   云うけれど
   後で拾うは
   寺のしょうにん 
  (『とりあえず一休』)

 金銭感覚がないのは、単に金銭に困ってないだけ。後で拾ってるわけでんな(笑)
 
 『おせん』が描き出しているのは憧れの世界なんだろう。
 だけど、聖職者の世界も娑婆。娑婆バリバリ。

 天皇は金に困らない。単純な話である。国民が面倒をみているから。
 天皇は「欲をすてよ」とは云わんと思うが、僧侶は云う。「金銭にこだわるな」等というが、不思議な事に御布施にも相場があったりする。

 聖職者に対する幻想は、まあ、『隣の芝は青く見える』というやつ。
 日本の伝統仏教がダメなら上座部仏教。あるいはチベット仏教。あるいは新興教団。思考を止める事がなければどこでも同じと云う事が解るのだろうが、まあ、そこまで思考を続けるのはしんどいし、そこまで興味もないのだろう。自分と違った何か『尊い人』がいて、それを崇め奉る事によって、自分を見つめなくても済む。その尊い人に帰依しているが故に、そのおこぼれでもって自分も尊いと。故に、他を差別する。
 そんな事は、ずっと変わってないと思うのだが。

 天皇家が豊かでも、自分は貧乏。でも、天皇家が本家である、とか。
 天皇家が神なら自分は神の『赤子』。

 本家の為、あるいはお偉い人の為に、自分が貧乏をする筋合いは一切ないと思うのだが。

 『答え』
 答えを探し求めている中で、「これは間違い、これも間違い」と切り捨てる。
 得た答えは、人を切り捨て排除し上に立つ差別思想の答え。
 答えを握ったが故に特権階級。正義の側。

 答えを握っているが故に、違う意見は『間違い』である。当たり前である。答えを知っているのだから。正解を知っていたら、違う意見は間違いでしかない。

 その答えは、ある特定の人にとっての『答え』『正解』であったのかも知れないが、他の人に当てはまるとも限らない。というか、当てはまる事がない事の証明が中国共産党によるチベット弾圧であったり、日本の過去の戦争におけるアジア侵略であったり、カルト教団の手法であったり。
 あるいは、左派、右派、人権派であったり。
 『答え』を持ったが故に『水平』に出会えない。
 そんな所で『水平』だったりするのだろうが。

 だから『宣言』には

 【吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によって、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。】

 と書いてある。
 排除されたが故に、決して排除する側には立たずに、『尊敬する側』に立つ。立とうとする。

 そういうのが『聖職者』ではないのかな?

 仏教なら
 【『華厳経』(入法界品)の偈に云うがごとし。もし菩薩、種種の行を修行するを見て、善・不善の心を起こすことありとも、菩薩みな摂取せん、と。】
 だろうし。

   源空光明はなたしめ
   門徒につねにみせしめき
   賢哲愚夫もえらばれず
   豪貴鄙賎も へだてなし
   (親鸞)

 だろうし。
 
 『おせん』は蒼井優ちゃんも出てるし、毎回録画しているが、悪いが、あれは貴族の道楽である。
 貴族が京都の庭園の中で「雅よのぉ。。。」と云ってる『外』で、食べ物に困った人が喘いでいる。
 「パンがなければブリオッシュを食べればイイのに」のマリーアントワネットみたいなものだ。
 清貧の思想みたいなもんだ。
 それでもって切り捨てる、排除するようなもんだ。

 それは、『関係』の不足である。『味』の未完成である。

 『無知の知』ソクラテスの言葉。当然、専修学院の授業で教えて貰った。
 知らない事を、限界を知っている。
 私が握っている『答え』は所詮、私の答えでしかない。
 その『私』という『個人』の自覚。
 そういう『個人』の自覚の上に『他者』と共に生きている。

 自分探し。大切な事。
 答えを求め、聖者を求める。
 今、生きている自分を無視して。

 今の日本も当たり前ながら日本である。
 ただ、『日本』という形が変わっただけの話である。
 在日コリアンを筆頭とする在日外国人を抱える日本。
 琉球、アイヌ、サンカ文化を抱えた上での日本。
 今ある日本文化を認めずして、過去の『美しい日本』を求めるのは、別れた彼女を美化するようなもの。
 「昔は良かった。。。」
 とは、今生きている人達、自分も含めた人達に対して無礼極まりない。

 人は人からしか産まれることは出来ない。
 人の価値は計れない。誰もそんな『はかり』等持ち合わせていない。
 人から人へ。そうやって歴史は変わり続けて行く。
 『個人』がいるが故に。

 私はそういう伝統の味を伝えたい。

 聖者の堕落、聖者の怠慢。
 『欲』を下界の事とする。下界の事として憐れむ。 
 『答え』『正解』を握っているが故に。

 答えや正解なんぞは個人が決めること。
 学校の先生や、坊主が決める事ではない。
 当然、国家が決めるものでもない。
 マザーテレサや、ダライラマが決めるものでもない。
 それは単に自分がないだけの話、自分を粗末にしているだけの話。
 人権思想に従うかどうかは、それぞれが決める事。
 自分がないから、人権思想ですら排除の思想にしてしまう。
 答えだから。正解だから。人権思想に従わないのは『間違い』『不正解』になる。
 そんな人権思想なんぞ、人権思想を求める気持ちが足りないのではないのか?
 『答え』でなく、問われ、求めるもの。とことん、求め続けていくもの。
 気づかされ続けて行くもの。
 
 『答え』でもって排除していた人との出会い。

 昨今、流行中の「フリーチベット!」で何を排除しているのだろうか?
 人権でも、解放運動でも。
 正義でも。

 排除される『悪』『鬼』『夷』 

 門徒の味
 「えらばず、きらわず、みすてず」
 エゴとの格闘技。
 エゴはしたたか。
 私は傲慢。何故なら、私なりの答えを握りしめているから。

 きっと、誰だって同じようなものだと勝手に思う。
 同じ様に答えを握りしめ、自分を立てる。私が尊いと。いうエゴ。

 エゴの告発が反差別運動。
 だからといって、告発する側が『聖者』であるわけがない。陥りやすい危険性。
 だから、『共に』という概念。共に解放されて行く、という概念。
 そんな伝統の味。
 『生徒』であった私を『先生』が対等に扱ってくれた味。尊敬してくれた味。
 聖者の驕りを否定する味。
 
 おいしいよ。

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