坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『敵』と『味方』

2007年06月17日 | 坊主の家計簿
 6月17日

 雑費   缶ココア         120円
      タバコ10       3000円
      鞄           1995円
      除湿剤          148円
 外食   とんこつラーメン     550円
 食類   野菜ジュース6     1188円
      天然水6         497円
      天然水6         414円
      玉の露(泡盛)     2088円
      蕎麦ダシ          96円
      麺つゆ          104円
      しそニンニク        85円
      パスタ4         392円
      イカ塩から        100円
      豆腐           105円
      発泡酒          175円
      シイラ刺身        250円
      チーズカマボコ2     176円
      きゅうり         110円

 合計              11593円
 6月累計            59873円

 2日遊んで(仕事はしたが)1日爆睡(仕事はしたで)。
 よって、今日は家事&買い物で1日潰れる(仕事はしてまっせ)。

 ホテル・ルワンダを観る。
 この映画は、若一光司(維新派の創立メンバーやったんけ?)が、関西ローカルの番組でルワンダの涙を紹介してた時に、かなり痛烈に批判してた。確か、「映画を観て勘違いするな。現実はもっと酷い」とかやったか?あと、とにかく両方の映画に関して痛烈に批判していたのが、「背後を何故問題にしない」と。

 そういう印象があったせいか、ホテル・ルワンダでは最後のエンドロールの歌が一番来た。
 確か
 「アメリカが合衆国なら、なぜアフリカ合衆国になれないのか?」
 「イギリスが連合王国なら、なぜアフリカ連合王国になれないのか?」
 みたいな感じ。

 菱木が金城実の言葉を紹介して「戦争は儲かるヤツがいるからなくならない」と端的に云ってた。
 元働いて居た所の代表は「原子力空母は、普通の空母より高いねん」と。

 対立を煽ると儲かる人達がいる。
 
 いや、『徳する』と言い換えよう。

 宮崎あおいちゃんと結婚するらしい兄ちゃんはパッチギのアンソン役の兄ちゃんらしい。
 パッチギの舞台は京都。
 大阪の朝鮮高校の番長でサッカー部のキャプテンで伝説の不良のア○ソさん。
 まあ、自分たちを虐める日本人をシバいて呉れるヒーローだったらしい。ちなみに私も日本人だがシバかれた事はない。「少年よ」と、エエ歳になったんだが、変わらず「少年よ」と呼んで呉れる。
 当然、対立を煽る人達もいるのだろうが、私には関係ない。対立を煽る閉鎖的な愛国心は認められるわけがない。
 
 対立を煽る人達に関して色々と精神病まで引っぱり出して来て語る人も居るが、私はそれも認めない。
 『個人主義』だし。『個人主義』に『敵』も『味方』も成り立つわけがない。
 「そういう人」でしかない。様々な影響があったのかも知れないが、それぞれの個人判断で動いて居ると『見出す』事が個人主義だと私は考えるし。

 アフリカの対立を煽る人達も、例えば国連常任理事国の国々のお偉いさん達も、それぞれ個人の判断で動いているのだろう。

 ちなみに『個人主義』と書いたが、厳密に云うと仏教に『個人』はない。無我だし。
 もっと云うのなら、無我を問題にしなければならない『個人」がある。
 宮崎あおいちゃんが結婚する事で心が動くのであって、それによって生活に影響が出る。
 ホテル・ルワンダを観る事によって当初書こうとしていた事が変わる。
 『とんこつラーメン』に使われてた様々な生命によって、他に今日喰った様々な生命によって、私は支えられてタバコを吸いながらゴチャゴチャ書いているわけだし。ネット世界を支える人達、電力、石油、労働者、等々。「一枚の紙に雲をみる」(ティクナットハン)っちゅうやつでんな。

 仏教では怨親平等を云う。
 私はこの『怨』の中に『無視』も含まれると考える。
 「同じ存在として見出せなかった。。。」のは『怨む相手』だけではない。
 それは直結して自他差別に通じる事柄だと考える。怨親平等を願われる立場だし。
 当然、願われるのは『あらゆる存在』に対してである。そのあらゆる存在に『敵』と『味方』なんぞあるわけがない。作り出すのはエゴ(人間の都合)だ。

 その『人間の都合』に大義を立てる。まあ、立てないと『敵』と『味方』なんぞ作れないし。
 私はよく『阪神優勝の為に関ヶ原をもう一度』等と書くが、当然あんなもんは冗談でしかない。
 そういうナンセンスな『敵』と『味方』に分別する、それが政治だろうが、宗教だろうが、うっとうしい。無茶苦茶うっとうしい。

 『自立と連帯』という。
 『連帯』といっても『個人』の連帯だ。『敵』と『味方』に陥った瞬間から、『自立と連帯』なんぞ成り立たない。
 単に
 『仲間意識が仲間外れを作り出す』
 だけである。

 フツ族とツチ族
 日本人と在日コリアン
 男と女
 等々。。。

【「阿弥陀様の差別と殺戮のない国っていいですよね、私もそれに賛成です」と(社会に聞こえるように)口に出して言うことだけである。すなわち、自分の意見としてでなく、阿弥陀如来の願いのメッセンジャーとして、平和と平等(の正義)を声高に叫ぶことだけである。】(菱木政晴氏。但し明石書店『憲法九条は仏の願い』42ページより)

 『敵』『味方』は『阿弥陀如来の願いのメッセンジャー』なのか?

 「それは甘い。現実の政治では。。。」
 なら、一体何時「始まる」のだ?
 始まった所から『敵』と『味方』が見えて来た話なんぞ、真宗仏教なのか?

 

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