坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

歎異抄 第一三章前半

2013年11月06日 | 坊主の家計簿
頭、いたいーーー!

 え~。とりあえず学校終了。飲み会終了。
 発表に関して意見を頂き、その意見に同調はしないけど、『課題を共有しあう』という事を考える。

 なんぞといいつつ、飲み会では大谷派宗門の被曝問題に関してボロクソに批判する。つか、批判は

【好きの反対は嫌いじゃないよ無関心】(マザーテレサ。というか、西原理恵子)

 なので、もっと批判相手と出会って行かなければ…。と思った次第。

 そして、頭が痛い…。なして接骨院が休みやねん…。



 歎異抄 第一三章前半 
                            

※ 表題 「道理の無視」

※ 本文

 弥陀の本願不思議におわしませばとて、悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。この条、本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざるなり。よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。また、あるとき「唯円房はわがいうことをば信ずるか」と、おおせのそうらいしあいだ、「さんぞうろう」と、もうしそうらいしかば、「さらば、いわんことたがうまじきか」と、かさねておおせのそうらいしあいだ、つつしんで領状もうしてそうらいしかば、「たとえば、ひとを千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と、おおせそうらいしとき、「おおせにてはそうらえども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしとも、おぼえずそうろう」と、もうしてそうらいしかば、「さてはいかに親鸞がいうことをたがうまじきとはいうぞ」と。「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといわんに、すなわちころすべし。しかれども、一人にてもかないぬべき業縁なきによりて、害せざるなり。わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と、おおせのそうらいしは、われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもいて、願の不思議にてたすけたまうということをしらざることを、おおせのそうらいしなり。

※現代語訳(朝日新聞出版『現代語 歎異抄(親鸞仏教センター訳・解説)』)

 人間の思慮を超えた阿弥陀の本願が「悪人を救う教え」であるからといって、悪を犯すことを恐れないのは「本願ぼこり」であり、「阿弥陀の浄土へ往生することができない」ということについて。
 この主張は、阿弥陀の本願への疑いであり、善悪の行為が人間の思いを超えた無数の条件や契機に促(うなが)されていることを理解していないのである。
 善い行いをしようという思いも、善を促す無数の背景や条件から起こってくるものであり、悪い行いが心に浮かぶのも、思いを超えた無数の背景や条件がそうさせるのである。
 いまは亡き親鸞聖人は、「兎や羊の毛の先にある塵のような小さい罪(チラッと心をかすめるような悪意)を犯すのも、すべて思いを超えた無限の因縁が背景にあると感知すべきである」とおおせられた。
 また、あるとき聖人が「唯円房よ、あなたは私の言うことを信じ受け入れるか」とおおせられたので、「もちろんです」と申しあげた。そうしたところ、「それでは、私が言うことに背そむかないか」と、さらに重ねて念を押されたので、誓って背きませんと申しあげた。すると聖人は「それではまず、ひとを千人殺してみなさい。そうすれば、浄土への往生は決定するであろう」とおおせになった。それに対して「聖人のおおせではありますけれども、たとえ、一人たりとも私のようなものには殺せそうに思えません」と答えたところ、聖人は「それでは、どうして私が言うことに背かないと言ったのですか」とおおせられて、「これによって、わかるでしょう。すべてのことが、自分の思うままになるのであれば、浄土往生のために、ひとを千人殺せと言われたならば、ただちにそうできるはずである。しかし、一人たりとも殺してしまうような宿業の深い背景がないから、殺せないのである。
 私のこころが優しく善良であるから、殺さないのではない。また殺すまいと思っていても、百人はおろか、千人を殺してしまうこともあるのだ」とおおせになった。
 それは、私たちのこころが善ければたすかるような存在だと思い、悪ければたすからないような存在だと思って、自分の善悪の基準に固執し、広大な本願によって善悪を超えてたすけられることを知らない、ということを教えてくださったのである。

※ 語意・語註

(一) 本願ぼこり
 阿弥陀の本願に甘えて、思い上がり、いい気になること。「悪人をたすけるのが阿弥陀の本願だ」と受け止め、あえて悪事を行い、阿弥陀如来に気に入られようとする邪説。
 唯円は、「本願ぼこり」の主張を批判しつつ、「本願にほこる」ことが、他力の信心であると意味転換していく。(親鸞仏教センター)

(二) 宿業
 無始已来の行為や経験の蓄積が、現在の自己となっているという存在理解が仏教の立場である。したがって、現在の行為や経験は、過去の行為や決断の結果の影響を受けるが、「現在」は、善悪の両面の可能性を孕んでいる。「過去」に対する自己の責任感と、「未来」に対する安心感を包んだ概念である。(親鸞仏教センター)

【すべて宿業の世界はまったく人間の意志をもっていかんともすることはできぬ。将来に向かってはわれわれの妄念妄想と関係してくるが、すでにできあがったものはどうすることもできぬ。したがって宿業は人間の力でどうすることもできぬ。これは如来のしろしめすところであって、そこに仏の本願がひらける。ゆえにわれわれは、宿業をしらしめていただくところに本願のはじめがある。宿業を知ることが本願のはじめを知ることがある。この宿業を知らしめていただくことは如来の回向である。如来の回向によってはじめて宿業を知らしめていただく。人間の妄念妄想の我執顛倒の見が、なにごとも心にまかせて人生を創造することができ、人生は人間の意志の自由により創造することができると妄想していたものが、それがながいあいだの仏の光にてらされて、この妄念妄想がようやくうすらいで、そこに宿業開発し、善知識にあい、南無阿弥陀仏の回向により、ほんとうに宿業を知らせていただく。宿業は人間の力のおよばぬ世界である。人間の力のおよばない世界を知らせていただき、それを縁としてわれわれは如来本願の大智海を開顕させていただき、それに開入せしめていただく。】(曽我量深『歎異抄聴記』

※ 関連語句

(一) アングリマーラ
 ある日、師匠が王の招きにより留守だったが、師の妻がアヒンサに邪に恋慕し誘惑した。しかしアヒンサはこれに応じず断ると、その妻は自らの衣を破り裂き、悲相を装い師の帰りを待って「アヒンサに乱暴された」と偽って訴えた。之を聞いた師は怒り、アヒンサに(一説には術をかけたともいわれるが)、剣を渡して「明日より100人(あるいは1000人)の人々を殺してその指を切り取って、鬘(首飾り)にすれば、お前の修行は完成する」と命じた。彼は悩んだ末に、街に出て師の命令どおり人々を殺してその指を切り取っていった。これにより彼はアングリマーラ(指鬘)と呼ばれ恐れられた。なお仏教では、この頃の彼を指鬘外道(しまんげどう)と呼ぶことがある。(wikipediaより)

※ 所感 

『生れによって〈バラモン〉となるのではない。生れによって〈バラモンならざる者〉となるのでもない。行為によって〈バラモン〉なのである。行為によって〈バラモンならざる者〉なのである』(スッタニパータ650。ただし、中村元『ブッダの言葉』より)

 という言葉が気になる。このスッタニパータの言葉は四性平等からの言葉だが、『宿業』という意味での『生まれ』という風に感じた。本願にほこって、悪をおそれざる『生まれ』であると。しかしながら、行為=念仏がある。バラモン(司祭・聖職者)の条件が行為によって決まるのならば、どんな『生まれ』であっても、行為=念仏によって、バラモンである。この場合のバラモンは、すんなりと念仏者でいいのだろう。念仏者としての条件は、念仏申すことである。『本願ほこり』という『生まれ』によって決まることではない。

【さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもするというところで人間は平等だというのです。宿業の縁が来ると、どう思おうともその縁の催しによってそういう振る舞いをしてしまうという、非常に危険な生き方をしなければならないという、そういう存在が平等なる人間の生き方なのです。だから人間にとっての救いはなにを救いの究極の一点にするかというと、その人間の持っている危険性をほんとうの意味で取り払うのではなくして、その危険性の危険から人間を解放するということがほんとうにできたとき、万人平等の救いが成り立つ。親鸞聖人はそれを御本願の教えのうえに仰いだのです。ほんとうに悪を転じて徳と成す正智とおっしゃっていますから、悪をなすという縁が来れば、悪をなしてしまうのです。あるいは悲しいことに出会うまいと思っても、縁が来れば、悲しいことに出会ってしまうのです。しかしそれを転じて功徳にする。生きる人間の功徳、利益に転成、かえなしていただける、そういう教え、それが本願念仏の教えである。もしこの教えがなかったら、さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもするという人間に救いはない。】(廣瀬杲『親鸞の宿業観』より)

【ずっと前の話なんですが、イスラエルのテルアビブという所で、日本から行った赤軍派の若者たちが機関銃を乱射して大勢の巡礼の人々を殺した事件があった。日本人は殆んど全部射殺されたが、一人だけ岡本公三という青年が捕えられた。彼は鹿児島大学の学生でしたから非常に印象に残った。困ったことをしたなと思いました。当時私は大学の学生部長で、学生運動に非常に関係のある立場でした。
 岡本公三君のお父さんは中学校の校長をしておられた。この父にとってこれは大変な悲劇であった。丁度その頃に私のところの土曜会で二泊三日の聞法会を開いて、寺田正勝という先生に来て頂いて講義を受けていました。
 この先生は開口一番、「今度テルアビブで乱射事件があって、岡本公三が機関銃で射ちまくったけれど、あれを人ごとだと思う人は信心の人ではない」と言われた。私はたまげましたね。私は人ごとだと思っていました。よその大学の学生ですし、困ったことだ位の話で自分のことだとは思っていなかった。先生云く、「機関銃を乱射したのは自分だとわからん人は信心の人ではない。」と言われてびっくり仰天しました。】(細川巌『歎異抄講読』より)

【ある日、私たちは、小さな舟の上で、タイの海賊に強姦された、若い娘についての手紙を受けとりました。彼女は、わずか十二歳でしたが、海に飛び込んで溺れ死にました。
 はじめてこのようなことを知ると、まず、あなたは、海賊にたいして怒りを覚えます。当然、娘の側に立ちます。
 さらに深く考えるにしたがって、違った見方をします。娘の側に立てば、ものごとは容易です。銃を取って、海賊を撃つばかりです。
 しかし、私たちには、それはできません。
 もし、彼のように、海賊の村に生まれ、同じ境遇で育てられたなら、私が今海賊になっていることを、瞑想によって、私は洞察しました。私が海賊になった可能性は、非常に大きいのです。そう簡単には、彼を非難することができません。】(ティクナットハン『ビーイングピース』(中公文庫91ページより)

 本文に『善悪の宿業をこころえざるなり』とあるが、それも『生まれ』である。そういう宿業なのである。だが、『こころえざる』である。

【苦とはサンスクリット語のduhkha(ドウクハ)に由来し、「ドウクハ」の「ドウ」は「悪い」という意味で、「クハ」は「運命」「状態」を表します。直訳すると苦とは、悪い運命、悪い状態となりますが、阿毘達磨(あびだるま)(紀元前2世紀頃の仏教文献)によると苦とは逼悩(ひつのう)と定義され、「圧迫して悩ます」という意味をもちます。つまり苦とは、自分ではどうにもならないことをいうのです。】(天台宗のウェブサイトより)

 とあるが、苦=思い通りにならない。
 無常であるが故に苦であるにも関わらず、人が思い通りに生きれるという大きな勘違いをしている縁起の道理に暗いという宿業が、『本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざる』人達にはある。
 だが、以前にある恩師より「結局、造悪無碍か賢善精進の在り方のどちらかしかできないねんな、おれらは」的なことを言われたことがあった。共に善悪の宿業を抱えた存在である。どういう『在り方』として現れるかの違いだけではないかのか?

 『悪をおそれざるは、また、本願ぼこりとて、往生かなうべからずということ。』という人達だけが『本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざる』人達ではないのではないのか?
 それならば『造悪無碍=善』になり、『賢善精進=悪』になっただけの話である。そういう判断をしてしまう私(たち)こそが『本願をうたがう、善悪の宿業をこころえざる』のではないのか?

最新の画像もっと見る

コメントを投稿