坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

かもめ食堂

2007年07月06日 | 坊主の家計簿
 7月6日

 雑費  缶コーヒー        120円
 食類  うどん玉          18円
     かにかま         100円
     温泉玉子          88円

 合計               326円
 7月累計           20994円

 かもめ食堂
 近所のレンタル屋で人気だったのでレンタル中ばっかり。ようやく借りて観たんだが、映画好きの作品やな。製作した人も観に行った人も。2時間近く、なんか居心地のイイ世界観に浸る事が出来る映画。
 
 「いらっしゃいませ」
 私も数限りないぐらい言って来て、数限りないくらい人から云われた言葉。ごくごく当たり前の言葉。そんな言葉が次から意味が変わって来そうな映画。

 映画を観終わって、思わず飲みに行きたくなったのだが、無理や、っちゅうねん。
 
 「いらっしゃい」
 「まいど」
 「らっしゃい!」
 「おう」
 「ようきたな、ワレ。」
 等々。
 人を迎える言葉、受け入れる言葉。

 しゃて、昨日も貼ったこのフラッシュ(http://higashihonganji.jp/)に、この曲(銃をとれ!)をかぶせてみる。
 あの白Tシャツの後ろ姿の眼鏡っ娘の鞄の中には銃と爆弾が入っている。。。
 んな事はないと思うのだが。。。

 差別に甘んじていた事から立ち上がる。

【吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。
 吾々は、かならず卑屈なる言葉と怯懦なる行爲によつて、祖先を辱しめ、人間を冒涜してはならなぬ。そうして人の世の冷たさが、何んなに冷たいか、人間を勦る事が何であるかをよく知ってゐる吾々は、心から人生の熱と光を願求禮讃するものである。
 は、かくして生れた。
 人の世に熱あれ、人間に光りあれ。】(宣言より)

 宣言は浄土教の歴史的文章、っちゅうか、仏教の歴史的名文である。
 差別されていたが故に、差別のおかしさが解る。
 冒涜されていたが故に、「冒涜してはならぬ」と。

【実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。 】(ダンマパダより)

 怨みを捨てる世を作る為に立ち上がった。
 
 当然、銃など持って居ない。銃を撃ち合う事ではない。暴力革命ではない。
 偏見を偏見として告発していく。偏見にまみれた相手を救って行く。

 ある学生運動上がりの女性解放学者が「男はずっと壊れている」等と云ったらしい。
 確かに『男』も人間であり、人間は本能が壊れた生き物である。『正しい』事などありはしない。
 だが、上記の発言は偏見にまみれている。
 「さすがは女だ。昔から頭が悪い」と云う偏見の再生産には役立っても、あるいは女性解放に対する偏見を増大さす事はあっても、他の意味は恐らくない。『女性解放』と云う名に平伏するしかない思考停止状態の『男』には通用するかもしれないが、そんな人はごくわずかだ。
 いや、それが『女性解放』というものなのかも知れない。女性だけの解放を目指すのなら。解同が物取り主義に陥ったように慢心して膨れて壊れるのを待てばエエだけの話でもある。

 『差別されていたからこそ。』というのを私は大事にしたい。だからこそ、上記の宣言のような名文が出来る、と。

 親鸞は弾圧された側だ。そして弾圧した人の為に祈れ、と。
 『首が飛ぶ念仏』の安楽は、最後まで念仏を勧めた。そして首を斬られた。
 決して、偏見に対して偏見で応えたわけではない。
 個々の人間を尊重する価値観の上に救われる。
 「女だから」とは偏見以外のなにものでもない。
 「男はずっと壊れている」も偏見以外のなにものでもない。単なる差別発言でしかない。

 解放論にも多々ある。当然の事だ。
 マイノリティ(少数派)がマジョリティ(多数派)に対してする差別は『差別ではない』とするのもある。
 だが、少なくともそれは仏教の解放論ではないはずだ。過激で魅力的なのかも知れないが、過激で人を斬り裁いて本当に楽しいのだろうか?その楽しさはたんなる暴力性ではないのか?

 浄土教の歴史の過激さとは、どこまでいっても相手を尊重することではないのか?首が飛ぼうが流罪にあおうが。相手から排除されようとも決して排除しない、という過激さ。だから安楽は念仏を弾圧する人に対して念仏を勧めたのではないのか?

 どうも、おかしな解放論が仏教に紛れ込んでいる感じを受ける。

 そういや以前に『自信喪失』で書いた事があったが、『自信喪失』で思い出す体験がある。
 坊さんのイベントで『ソウルフラワー・モノノケサミット』を呼んだ事がある。当然、阪神大震災の後に。好きだったし、坊さんのイベントにはピッタリだと思ったので。
 会場は寺の本堂。
 私は仕事で忙しくあまり会議に参加出来なかったし、当日も行けなかった。けど、打ち合わせの時に寺の役人さんが会場に使う本堂の中の内陣(仏壇みたいなもん)を「大きな幕で隠す」という意向だった。それは別に「そうしなければならない」と云う事ではなく、気を使ったのだ。つまり本堂を単に『会場』として考えて居た。だから『隠した方がいい』と判断したらしい。
 当然、私は反対した。せっかく本堂でやるのだから問題がなければ内陣も開けっ放しの方がイイ、と。
 よくよく話してみると、その人の意識の中に「寺はカッコ悪い」という意識があるみたいだった。「寺で産まれ育って、私はそういう意識を持っていた」みたいな感じの事を云われていたし。
 私は「寺はカッコいい」の方だし、だからもっと見せた方がイイ、の意見だし。

 『カッコいい』という言葉には問題があるが、別に寺なんだし、寺は寺だ。坊主は坊主だ。それが事実だ。事実は疑いようがない。
 仏教は仏教である。当然、様々な歴史的な思想交流があって当然の事なんだが、基本、仏教は仏教である。
 女性解放論の中でも排他的な解放論をそのまま『仏教』とする必要性は全くない。
 受け入れる事(交流)は大事だが、受け入れたのなら仏教の立場として批判すべきだ。
 新たな客の意見に全員が納得する義務は全くない。
 まあ、仏教に自信のない人だけが過激で排他的で偏見に満ちあふれた差別発言に賛同していればイイだけだ。だが、それは仏教教団の中に居る限りは徹底的に批判されるだろうが。仏教でもなんでもなく、単なる偏見だし。


 「毎日真面目にやってれば、そのうちお客さんも来るようになりますよ」(映画『かもめ食堂』より)

 

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