坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

異宗教の御神体

2008年05月19日 | 坊主の家計簿
 5月19日

 雑費  古本2         600円
     タバコ         300円
 外食  チキンカツ蕎麦     347円
 食類  発泡酒2        214円
     タコ造り        240円
     バイ貝煮付け       90円
     タイ煮付け        50円

 合計             1841円
 5月累計          69027円

 古本は
 新谷尚記監修『「お葬式」の日本史』
 新谷尚記『日本人の縁起かつぎと厄払い』

 ついでにネットのブックオフで新谷尚記氏等の本を購入。いや、民俗学が好きでんねん。

 映画『靖国 YASUKUNI』のホームページ(http://www.yasukuni-movie.com/)に気になる事。
 ちょうどトップページに書いてあった事なのだが、何やらホームページに書かれてあった靖国神社の御神体について事実と違う記載があったらしい。それに触れながらも靖国神社の御神体についてホームページに書かれていた事は映画『靖国 YASUKUNI』の制作側の見解であるとした『御詫びみたいなもの』。

 真宗門徒である私は当然靖国神社の信者ではない。信者ではないし、靖国神社の国家護持に対しては断固反対する意見の持ち主である。まあ、靖国神社を支援する人にとっては『敵』になるのかもしれない。
 靖国神社は昨日も書いたが、今は単なるその辺の神社仏閣や、いわゆる『新興宗教』団体の教会と同じ『一宗教法人』である。当然の事、私が信仰している教団や、今居る寺等を大切にしたいのと同じ気持ちを抱えた方々が靖国神社にも多く居られるであろう。それはいわゆる『新興宗教』でも同じである。
 
 映画『靖国 YASUKUNI』はまだ観ていないが、その辺の事を映画を製作した側は解っているのかな?と疑問に感じる。

 聖地や信仰対象はそれぞれ。
 極端な例でいえば『なにもない』所もある。場所だけがあって『なにもない』。その『なにもない』所に、例えばアイヌ民族の聖地に日本は二風谷ダムを建設した。
 
 また、『近代』からすると不思議な『生まれ変わり』の宗教観を持つチベットに対して中国政府は明確に宗教・文化弾圧をした。いや、している。
 例えばパンチェン・ラマ。詳しくはこちらを。
 (http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/index.html
 チベット側が認定したパンチェン・ラマは、中国政府によって『行方不明』である。そして中国政府が認めたパンチェン・ラマが居る。ちょっと宗教を馬鹿にし過ぎである。
 当然、私にも『生まれ変わり』等解らない。解らないが、チベット仏教という、私にとっては違う信仰をして居られる方々がそういう信仰を持っておられるのだから、それを尊重せずして人権思想は成り立たない。
 人権思想と書くと誤解が生じるから危険なのかも知れないが、ただ単に、そういう信仰を持たれて居られる方々が居てるだけの話である。後は、その人達を自分と対等に『見ようと』するかどうかだけの話である。

 最近、身辺であった事でいうと、坊主バーに置いてあった仏像に落書きをした方が居てるという問題である。数日前にも書いたが、どう考えてもあれはスタッフの関与がなければ無理である。
 『バー』というのは様々な方が来られる。
 ちなみに『バーテンダー』の『テンダー』とは『司祭』の意味らしい。また、『自殺を思い立った人が最後に会いに行く人』であるとも。そういう誇りが『バーテンダー』にはある。飲み屋にはある。それは一人の『お客さん』を対等な水平な『同じ人間』として尊重する所から始まる。客は敏感である。また、金を払って飲みに行くのである。イヤな店など二度と『いやがらせ』以外の目的で行くわけもない。
 ちなみに坊主バー(厳密には『VOWSBAR』)には設立宣言がある。
 ネットに落ちてたのでリンク。
 (http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/5766/sengen.html
 ちなみに宣言の元ネタは『三帰依文』。

 【我々は今 大阪ミナミの地に
  あらゆる人々が 水平に出遇う
  VOWS BAR(誓いの場)を設立する】
 (VOWSBAR設立宣言より)

 ちなみに坊主バーは『坊主のバー』という名の通り、基本は真宗である。真宗仏教以外は戒律で酒は禁じられているはずだし。
 真宗の本尊は『南無阿弥陀仏』本尊論はややこしいが、まあ、阿弥陀如来。
 大谷派の宗憲(宗派の憲法)では
 【第九条(本尊)本派は、阿弥陀如来一佛を本尊とする】
 とある。
 落書きされた仏像は『釈迦牟尼仏』。真宗の本尊ではない。
 真宗の本尊ではないが、違う方々の信仰対象の大切なものである。ある真言宗の僧侶は見た瞬間に合掌礼拝する対象である。

 自分にとってはどうでもイイものであっても、他者にとっては大切なもの。
 もの凄く当たり前の事なんだが、これも出来ていない事が多い。

 例えば死者ビジネスというビジネスがある。別名『ハイエナ』と呼ぶらしい。
 亡くなられた本人にとっても、亡くなられた方の近親者にとっても、亡くなられた方は大切な存在。だから、合掌礼拝する。神道でも、キリスト教でも何かしらの祈りは捧げるであろう。
 が、死者ビジネスにとっては大切な遺体も『金儲けの道具』。当然、現場には様々な方々がおられる。が、はっきりとそういう話を聞いた事もある。

 では、自分自身。
 自分自身を『どうでもイイ』という人はいない。
 よく「俺なんてどうでもイイんだよ」等と聞くし、私もいうが、あれは愛の裏返し。自分自身が自分の『思い』の期待に添えなかったが故に「俺なんてどうでもイイ」と。どうでも良くないが故に「私なんてどうでもイイ」になる。まあ、自分自身に対する期待が高過ぎるから、慢心が故なのだろうが。
 そういう意味も含めて、自分自身を『どうでもイイ』という人はいない。
 だが、自分自身ですら自分の『思い』の道具にしてしまう事と同じく、他者なら尚更の事。自分の思い通りに生きる為の道具にする。だから都合が悪くなると捨てる。

 尊敬されたら嬉しい。
 違う云い方なら「愛されたら」でも同じ。
 それが御都合主義でなく、「どんなあなたであっても」なら尚更の事。都合の良い時だけ愛される尊敬されるのでなく、「どんな時でも」なら。だから安心出来る。

 御都合主義。
 自分の『思い』にとって大切なものと、大切でないもの。
 大切なものはその名の通り大切に扱い、大切でないものはその名の通り粗末にする。

 粗末に扱われて、具体的ならイジメであったり、差別であったり、そんな事をされて嬉しい人はいないと思う。

 宗教。非常に敏感な、繊細な問題。
 例え、自分が信仰していない宗教であっても、その宗教を大切にしておられる方々がいる。自分の『思い』の外に居られる。
 自分の『思い』だけでもって、それを馬鹿にしたり、粗末にする事は決してあってはならない事。
 それは一直線に自分自身を自分の『思い』の道具に、『モノ化』してしまっている事。

 靖国神社の問題も同じ。
 元々の靖国神社は国家の為に尽くした人『だけ』を英霊として祀る宗教であった。
 真宗門徒である私は、そういう靖国神社の宗教観に同意する事は一切出来ない。
 が、しかし、同様にその宗教に対して信仰を持たれている方々も知っている。実際に行って確かめる事も出来た。
 真宗門徒である私は、人権思想を大切にしている私は、そういう人達を決して軽蔑出来ない。それは無礼である。私の信仰、思想に反する。
 後は、どちらの宗教がいいのかを選ぶ人の問題である。そこまでは関与出来ない。出来るはずもない。

 『ややこしい』という言葉に少し凝りたいのだが、正義を立てればややこしくない。相手が間違って居るだけの話である。

 昔、それこそ仏教を学び始めた当初にある長老がこんな事を仰ってた。
 ちなみに『和田先生』という。当時は信仰がなかった、つまり『先生』を『先生』として見出していなかったので『和田さん』と呼んでいたのだが、和田先生が
 「解った瞬間に、眼がトロンとして来よる。」と。
 特に、『僧侶』が居た側に向かって「あなた達の事ですよ」と。それは先生自身に対する自己批判でもあった言葉だろうが。先生自身『僧侶』であったし。
 だから、
【だいたい、この身のこの世にあるかぎり、そして一人の苦悩する者のあるかぎり、私に真の安息が保障されるはずがないのだ。そんな中で「私は救われた」と言うのなら、その「救い」は人々の苦悩の声に固く耳を閉じた、おめでたい自己満足にしかすぎぬ。それは信心という名の差別意識である。】(和田稠『終わりなき歩みを共に』218~219ページより)

 靖国神社は元々国家の為に死んで行く人を再生産する宗教であった。つまり、『御国の為』で死んでいく人達を再生産していく宗教であった。その人達を英霊と。
 私は真宗門徒である。摂取不捨、「えらばず・きらわず・みすてず」の『側』に『立とうとする』信仰を持つ。立てないが、その働きによって、具体的には直接の人との出会いによって、先輩の念仏者との出会いによって、私の都合ではなく「そっちが真実である」と。
 だから、「えらび・きらい・みすてる」事をきらう。そういう働きをするエゴとの格闘技である。

 私はこの世に生きている。様々な信仰を持たれて居られる方々と共に生きている。生きている限り、私は私の信仰で発言し続けて行く。
 それだけの話である。
 だから、映画『靖国 YASUKUNI』のホームページに書かれてある事に違和感を感じる。
 靖国神社が現在も抱えている問題の中に違う宗教の方を合祀する問題がある。それは違う宗教を認めない事に通じる。宗教という、敏感な部分を無視し、あくまでも靖国神社側だけの理屈でもって合祀している。
 それは宗教、信仰に対する侮辱である。
 同じ事を映画『靖国 YASUKUNI』のホームページに書かれてある事を通じて感じる。
 御神体はその宗教にとっての肝腎要である。だから違う宗教、考え方を持っていても、尊重しないと。

 ややこしい。
 ややこしいからこそ、水平である。

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