坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

間違う存在

2007年10月04日 | 坊主の家計簿
 10月4日

 外食 かきあげ豚汁めし     400円
 食類 カニほぐし        100円
    さゆり&ホタテ      100円
    ところてん         68円
    きゅうりヌカ漬け      99円

 合計              767円
 10月累計          9177円

 テレビで舛添大臣が年金を泥棒した人を「刑事告訴する!」とかブチ撒いてた。 
 数カ所の地方自治体が「まあ、済んだ事ですし」と。地方自治体としての処分も済んでいる、と。

 市民の声。っちゅうか、マスコミが選んだ『市民の声』。
 「泥棒して謝罪したからと云って、許されるのなら法は要らない。」
 「もう、処分も済んでいる事ですし、エエのでは」
 大まかにこの二つか。
 ちなみに私は別に舛添大臣に加担するわけではないが、刑事告訴すべきであると思う。公務員やし。『身内の隠蔽工作』は公務員はやったらアカンやろ。多分、不起訴になる可能性の方が高いと思うが、やった方がエエと思う。
 
 けど、これは公務員っちゅう仕事やからであって、例えば民間会社の金を着服した『だけ』の話なら、それはその会社内の問題で収めてもエエと思う。社内の処分でエエと思う。別に事を荒立てて刑事告訴なんぞする事、社員を国家に売り渡す必要はないと思う。

 舛添大臣発言からみの中で「教育的に悪い」っちゅう声もあったと思う。ボンヤリとニュース観てたんだが。
 「他人の金を盗んで刑法で処罰されないのは子どもの教育的に悪い」
 みたいな感じか。
 これは違うと思う。

 当然、刑法で処罰された人も含めてなんだが、人間なんて間違うもんやんけ。それ等の人達を『許す』っちゅう『気持ち』を伝えて行くのも、っちゅうか、そっちの方が大切な教育なのではないのか?
 「人間社会のルールを犯したら、人間社会から一定のペナルティーを受ける。だから、やったらダメなんですよ。他人様に迷惑をかける行為をやったらダメです。」
 が、まず前提として、でも、
 「間違って人間社会のルールを違反してしまった人達が居たら、その人達をむやみやたらと裁いたらダメですよ。あなただって間違える事はあるでしょ」
 っちゅう気持ちを伝えて行くのも大事ではないのか。

 こんなニュースを見つけた。
 http://newsflash.nifty.com/news/jcast/ts__jcast_11961.htm
 私もニュースを観てて「酷い事件やのぉ。。。」と感じた。10年程前の女子高生コンクリート詰め殺人事件を思い出した。
 当然、私が殺された人と親しかったら「殺せ!!!!!」だろう。
 「ボケか、こら。おんどれ、ムショから出て来てみろ。その瞬間に俺が殺す。シャブ打ってから、足首切って、激痛を何倍に格大させて、ゆっくり殺したる。待っとれよ、こら」
 だろう。別に死刑なんぞ求まずに、間違いなく私が殺すであろう。
 あるいは、この遺族達の様に死刑を求めるかも知らん。きっとこの人達は私より暴力的でなく、優しい人達なんだと思う。
 リンク先のニュースによると10日間で10万人の死刑賛成を求める声、署名があったらしい。
 殺された人、遺族に感情移入出来る優しい人達だと思う。
 罪を憎む、殺人を憎む優しい人達だと思う。だから、声をあげるのだと思う。

 でも、人間は間違える、と思う。

 「いや、あいつ等は人を殺す事を『間違い』なんだと思っていない。だから死刑は当然だ」
 と云う声が頭をよぎる。
 「だから、殺されて当然のヤツ等なんだ」
 と、云う事なんだろう。きっと。

 殺されて当然の人は居ない。だから人命は尊い。
 エエ事したから『殺されてはならない』ではない。
 悪い事をしたから『殺してイイ』ではない。
 殺されてイイ人なんぞ誰一人として居ない。

 殺された方の遺族に寄り添う気持ちは素晴らしい。遺族外来の見本みたいなもんだ。
 仮にこの遺族が私のお参り先の方であったと仮定する。
 殺された女の人は、タマに顔を合わす。お母さんから「坊さんにお茶を出して」と云われて、私にお茶を出して呉れる。そのせいか、道で顔を合わすと互いに軽く会釈する。
 突然、聞く。「あの娘さんが殺されたで」と。
 私は葬儀に僧侶として行く。中陰中に私が行く。
 きっと何も話せない。ずっと話を聞いているだけだろう。
 「大谷派さんは死刑に反対してるみたいやけど、何でなんですか?」と聞かれる。涙ながらに聞かれる。
 「是非、署名して下さい。犯人を死刑にする為に署名して下さい。」
 私は、多分、署名する。それが現場だし。
 「人のいのちって大切ですよね。」って呟きながら。

 その事が問題になる。署名した事が問題になる。
 「君は死刑制度に対して賛成の署名をしたらしいではないか。」と問題になる。
 「君は人のいのちを、仏法をどう心得ているのかね?」と問題になる。
 反論しても聞き入れて呉れない。教団の法で裁かれる。
 でも、云う。「人のいのちって大切だ!」って。

 間違える。
 そんな間違える存在が人間なんだと感じる。
 「間違えたらいけない」と自分を追い込む。他人を追い込む。
 間違えた自分や他人を許せない。認めない、「殺してしまえ!」になる。
 そして、それも『間違い』である。
 『穢を捨て、浄を欣う』のでない。間違い多き、穢れ多き私(達)ではないのか?
 だから、例えどんな人(達)であろうが、どんな私であろうが、裁く事を『間違い』だと思う事ができ、殺す事を『間違い』だと思う事が出来る。
 私にはそれが嬉しかっただけ。

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