7月3日
雑費 缶コーヒー 120円
食類 レタス 108円
白菜 100円
豪州牛肉 218円
発泡酒 175円
天ぷら2 98円
合計 819円
7月累計 17076円
DVD三昧。
嗤う伊右衛門?-?goo?映画
圧巻。蜷川幸雄という人の芝居も映画も観た事がなかったが、「圧巻」の一言。
グッドナイト&グッドラック
全人類必見の映画。自由の国アメリカの愛国心映画。「国を愛するとは?」とか諸々考えさせられる。とにかく一度観た方がエエ。
戦場に咲く花(2000)?-?goo?映画
最初は反日映画かな?と思いながら観てたのだが、なんのなんの。映画の中である中国人が「今は誰の天下だ?」というセリフがあるが、『戦争』『国家』に翻弄される『人間』の映画。
最近、ずっと頭の中で気になっている事がある。
まあ、偶然に発見したブログで光市母子殺害事件に関する記事を書いてあった。少し前の記事。
で、コメント欄での論争。
書いているのは恐らく大谷派僧侶。当然の如く死刑廃止論者。記事も当然そういう内容。
コメント欄での批判は諸々なんだが、それを読みながらフト考えたのだが。。。
例えば、僧侶が死刑制度を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
あるいは、僧侶が戦争を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
あるいは、僧侶が差別を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
そっちの方が大問題ではないのか?
世間が『僧侶』に対して抱くイメージは当然諸々であろう。
だが、例えば被害者家族やマスコミと同じく「あんなヤツは殺してしまえばいい」という論調で書いた方が問題ではないのか?それは世間が『僧侶』という事に対するイメージとしてどうなんだ?如何なる罪を犯した人間であろうとも、その人間を「殺してしまえ」という論調で書くのは、はたして『僧侶』なのか?そういう僧侶に葬式して貰いたいか?
死刑や、戦争や、差別を肯定する事を公に書き込む事がはたして『僧侶』なのだろうか?
そのブログのコメント欄の批判文に「あなたは僧侶を辞めた方がいい」みたいな事が書いてあった。少し前の記事だし参戦しなかったが、無茶苦茶気になる。
確かにブログの記事を読んでいると「ん?」と首を傾げたくなる事もあるが、恐らく『彼』は批判に対しても彼なりに面と向き合っていたし、ただ『意見が違う』だけなのだろう。ちょっとマニュアル的な部分もあって気になって居たのだが、『彼』は私がよく批判する運動坊主の悪いパターンは批判しているし。
前の休みの前の夜にヒマだったのでタマタマ見つけて読んでいた。それから気になっている。
以前に『あっかんべェ一休』という漫画を読んでたら、若かりし一休さんが大燈国師について語って居る部分があった。その中での話で大燈国師が花園上皇に会った時に
「仏法不思議、王法と対座す」と花園上皇から云われたそうな。で、大燈国師は
「王法不思議、仏法と対座す」と。
別に僧侶は右翼でも左翼でもない。右翼的な僧侶や、左翼的な僧侶も居るが、それはそれぞれの育ち方の問題だろう。『育ち方』というよりも『影響』かな?
私はきっと『左翼的』だろうし。当然、左翼的=仏教徒ではない。左翼的な事が=仏教徒であるのなら、別に仏教徒になる必要がない。大谷派に入らずに中核なりブントにでも入っていればエエだけの話だ。赤軍だってまだある。
当然国家に迎合するのが仏教徒であろうはずがない。仏教徒には仏教徒の論理がある。僧侶なら僧侶としての仏教徒の中のエリートとしての責任がある。
『僧侶らしい』とは、当然、各宗派によって違う。それぞれ個人のイメージ以前に宗派によっても違う。大谷派、つまり真宗の僧侶資格を持っている私に『門徒さん』はビールを呉れるし(笑)
ん?
だが、私も人生の中で『僧侶』でなかった時代の方が長いわけだし、寺で育ったわけでもない。
そんな中で、死刑制度を肯定する僧侶は僧侶としてどうなのだ?戦争や差別しかり。それは別に『左翼』でもなんでもないだろう。
仏教徒だから、僧侶だから、当然の如く死刑・戦争・差別に反対する。それは『坊さんらしく』ないか?
先にも書いたが、例えば
「あんな極悪人は殺してしまえばイイ」
「悪の枢軸国に攻め込む事は世界平和の為に当然の事である」
「女が男に従う事は当たり前ではないか」
の方が問題ではないのか?
当然、それを『可』となす仏教の論理も成り立つのかもしれない。
だが、真宗仏教では違うな。間違いなく違うな。
雑費 缶コーヒー 120円
食類 レタス 108円
白菜 100円
豪州牛肉 218円
発泡酒 175円
天ぷら2 98円
合計 819円
7月累計 17076円
DVD三昧。
嗤う伊右衛門?-?goo?映画
圧巻。蜷川幸雄という人の芝居も映画も観た事がなかったが、「圧巻」の一言。
グッドナイト&グッドラック
全人類必見の映画。自由の国アメリカの愛国心映画。「国を愛するとは?」とか諸々考えさせられる。とにかく一度観た方がエエ。
戦場に咲く花(2000)?-?goo?映画
最初は反日映画かな?と思いながら観てたのだが、なんのなんの。映画の中である中国人が「今は誰の天下だ?」というセリフがあるが、『戦争』『国家』に翻弄される『人間』の映画。
最近、ずっと頭の中で気になっている事がある。
まあ、偶然に発見したブログで光市母子殺害事件に関する記事を書いてあった。少し前の記事。
で、コメント欄での論争。
書いているのは恐らく大谷派僧侶。当然の如く死刑廃止論者。記事も当然そういう内容。
コメント欄での批判は諸々なんだが、それを読みながらフト考えたのだが。。。
例えば、僧侶が死刑制度を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
あるいは、僧侶が戦争を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
あるいは、僧侶が差別を肯定する記事を書いたらどうなるのだろうか?
そっちの方が大問題ではないのか?
世間が『僧侶』に対して抱くイメージは当然諸々であろう。
だが、例えば被害者家族やマスコミと同じく「あんなヤツは殺してしまえばいい」という論調で書いた方が問題ではないのか?それは世間が『僧侶』という事に対するイメージとしてどうなんだ?如何なる罪を犯した人間であろうとも、その人間を「殺してしまえ」という論調で書くのは、はたして『僧侶』なのか?そういう僧侶に葬式して貰いたいか?
死刑や、戦争や、差別を肯定する事を公に書き込む事がはたして『僧侶』なのだろうか?
そのブログのコメント欄の批判文に「あなたは僧侶を辞めた方がいい」みたいな事が書いてあった。少し前の記事だし参戦しなかったが、無茶苦茶気になる。
確かにブログの記事を読んでいると「ん?」と首を傾げたくなる事もあるが、恐らく『彼』は批判に対しても彼なりに面と向き合っていたし、ただ『意見が違う』だけなのだろう。ちょっとマニュアル的な部分もあって気になって居たのだが、『彼』は私がよく批判する運動坊主の悪いパターンは批判しているし。
前の休みの前の夜にヒマだったのでタマタマ見つけて読んでいた。それから気になっている。
以前に『あっかんべェ一休』という漫画を読んでたら、若かりし一休さんが大燈国師について語って居る部分があった。その中での話で大燈国師が花園上皇に会った時に
「仏法不思議、王法と対座す」と花園上皇から云われたそうな。で、大燈国師は
「王法不思議、仏法と対座す」と。
別に僧侶は右翼でも左翼でもない。右翼的な僧侶や、左翼的な僧侶も居るが、それはそれぞれの育ち方の問題だろう。『育ち方』というよりも『影響』かな?
私はきっと『左翼的』だろうし。当然、左翼的=仏教徒ではない。左翼的な事が=仏教徒であるのなら、別に仏教徒になる必要がない。大谷派に入らずに中核なりブントにでも入っていればエエだけの話だ。赤軍だってまだある。
当然国家に迎合するのが仏教徒であろうはずがない。仏教徒には仏教徒の論理がある。僧侶なら僧侶としての仏教徒の中のエリートとしての責任がある。
『僧侶らしい』とは、当然、各宗派によって違う。それぞれ個人のイメージ以前に宗派によっても違う。大谷派、つまり真宗の僧侶資格を持っている私に『門徒さん』はビールを呉れるし(笑)
ん?
だが、私も人生の中で『僧侶』でなかった時代の方が長いわけだし、寺で育ったわけでもない。
そんな中で、死刑制度を肯定する僧侶は僧侶としてどうなのだ?戦争や差別しかり。それは別に『左翼』でもなんでもないだろう。
仏教徒だから、僧侶だから、当然の如く死刑・戦争・差別に反対する。それは『坊さんらしく』ないか?
先にも書いたが、例えば
「あんな極悪人は殺してしまえばイイ」
「悪の枢軸国に攻め込む事は世界平和の為に当然の事である」
「女が男に従う事は当たり前ではないか」
の方が問題ではないのか?
当然、それを『可』となす仏教の論理も成り立つのかもしれない。
だが、真宗仏教では違うな。間違いなく違うな。
だって、一応、国家から認められた宗教法人ですし。伝統仏教っちゅうのは。
宗教法人株が無くなれば、多くの寺は兵糧攻めで潰れますよ。まあ、民間に降りればエエだけの話なんですが。
教育基本法の改正で教師が10年毎の免許切り替えになったみたいですが、ヤクザが公営住宅に入れなくなったのと同じじゃないですかね。