坊主の家計簿

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『大谷派なる宗教精神』

2012年11月16日 | 坊主の家計簿
先日、水島ゼミ出身の兄ちゃんと夜中まで飲んでしまった記念。つか、ブログが消えたら危ないので保存。

【高光先生に次のようなエピソードがあります。三十八歳になるガンを患っている人がいました。その方の奥さんが高光先生に、「ぜひ夫に話してやってくれ」と頼みにきたのです。「枕元に来て、夫が安楽に死ねるように話してやってくれんか」というのです。すると、高光先生が、「ご覧の通りの私の生活だ。こんな貧乏寺の、それも子だくさんのような、普通の人の生活からすると失敗の生活をしている私である。そういう私でよかったら行く」と言いますと、「もうとにかく来てくれ」と頼まれるのです。こういうことで、高光先生は、ガンでもう明日、明後日の命という容態の人のところに行きました。行くと、その方はもう話ができない状態でした。ですから、促されるままに、「あなたの今の断末魔の苦しみというのは、世々生々の苦しみであって、それは人間的希望の絶望であろう」と話したのです。生きるということを前提にしているから、死が目の前に来たら希望が途絶えるのである。明日もあると言っている場合ではない。明日もある、努力すれば願いがかなうというような人間的希望が、今ガンによって絶望のどん底に落とされているではないか。そういう事実について、高光先生は「その希望は、実は過去から約束された絶望であろう」と説くのです。「その絶望は、如来から賜わったという意味があるであろう」と言うわけです。その絶望の意味を見出せ、ということであります。
 すると奥さんが、「ご住職、そんな難しいことを言わないで、夫は死ぬのだから、ナンマンダブツ一つで極楽に生まれるということさえ言ってくれたらそれでいい」というのです。すると高光先生は男性に向かって、「あなたの最愛の妻ですら、ナンマンダブツというような、どこかで小耳に挟んだ念仏をもって、あなたの今まさに永遠のいのちへの更生の絶好の機会をごまかそうということしか言えないのだ。どうせ奥さんは、あなたが死んだ後の生活が成り立つかどうかということを気にしているのだ」と。すなわち、奥さんは人間的希望の中にいるのであり、ガンの夫は、その人間的希望の絶望にいる。人間的希望が絶望するということは、もう手も足も出ない状況になる。手も足も出ない絶望。ところが、この絶望においてはじめて如来招喚の声を聞くことができる。絶望こそ福音なのだ、ということです。「絶望の福音」(「生活日抄」『直道』一九二六<昭和一一>年八月・『道ここに在り』東本願寺出版部)というタイトルの文章が高光先生にありますけれども、そこにこのような出来事が綴られています。人間的希望が絶望する時こそ、永遠の生命に生きる時だというわけです。
 われわれは、人間的希望のなかでしか生きていけないのでしょう。私たちはどこを輪切りにしてもそうです。静かに自分の生活を振り返ってみるとわかります。希望でしか私たちは生きていないのです。しかし、これは常に絶望が約束されている希望です。絶望が底に流れる希望です。ですから、われわれは絶望するより他ない人生を生きているのです。ところがこの絶望が、実はガンに病んでいる人のみに与えられた福音であって、これこそ本当の永遠のいのちの始まりである。そのように高光先生はガンに病んでいる人に説いたのです。
 すると、その方が「わかった、わかった」と言って、涙を流して喜んだのです。私のガンには実は大きな意味があったのだ、ということでしょう。絶望こそ福音である。ですから、人生には絶望はない。おそらくそのように言い切って余りある生涯を、高光先生は生きられたに違いありません。
 私たちは、自分が死ぬということにぶつかったとしても、死ぬまで生きがいを持って生きていこうという話しかできません。死ぬまで人間らしく生きていこうというのが精一杯の生き方です。そのために努力するのです。死ぬまで工夫をして努力して充実していこうというのは、それは「心の延命策」ということになると私は思います。
 そうではないのです。真宗は決して心の持ち方の次第を教えるのではありません。心を持ち替えるのではなく、私に死というものが与えられてある、その死の意味を知るところに真宗の真義があります。如来より賜わりたる『死』。このような強い確信こそ、真宗によって付与されるのではないでしょうか。】(水島見一『大谷派なる宗教精神』43~45ページより)

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