坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

「はじめに尊敬あり」(一九七七年十一月 竹中智秀先生 みどう仏青『同伴者親鸞』より)

2013年06月24日 | 坊主の家計簿
「はじめに尊敬あり」(一九七七年十一月 竹中智秀先生 みどう仏青『同伴者親鸞』より)


@「共苦」ということとニヒリズム

 去る十一月二日に本願寺爆破事件があり、そのことに関して「闇の土蜘蛛」というグループから声明文が出されました。それは東本願寺が北海道開拓でアイヌの人達を差別し迫害したということをとりあげています。その彼等の行動の原理、理論の指導者は太田竜という人で、「アイヌモシリから出撃せよ!」という論文集の中で本願寺を告発しています。かれは「三十六億の地球の人間のなかで、もっとも抑圧され、しいたげられ、奴隷化されている地獄の底に生きる最後の一人、その最後の一人のところまで辿り着くこと、それが私の組織論だ」というのです。そしてその最底辺のところまでたどりつくことによって、一つの抑圧構造、差別構造を成り立たせている社会構造を、最底辺からくつがえしていくというのです。だから本当に人の苦しむとか悲しみを共有していく、ということがそこではいわれているのですね。こういう話になると、私達が普段「如来の本願」という形でいろいろいっていますが、それとどこが違うかということになりますね。
 しかし、気がつくのはそういう差別構造、支配構造を成り立たせている社会を生きている人達、最底辺であえいでおる人達を黙認している者、そういう矛盾構造の中で差別しながら自分達の幸福を追求している者は許せない。それは殺す以外にないのだというのですね。だから本願寺なんか滅びよということになるのです。否定して否定して、葬って葬ってということしかないのです。だからそこには矛盾があるのです。つまり、あらゆる人々と苦しみを共にするという一方で、差別しているものは抹殺していくという矛盾があるのです。だからそこには激しい憎悪があります。太田竜に最終的にあるのはニヒリズムなんです。言っていることは確かにうるわしいひびきをもっているのですが、そういうことを黙認しているものは滅びよという、どうしようもない憎悪が流れているのですね。


@「転成」のはたらきとしての「海」

 ただ私がそういうことの中で考えさせられたことは、親鸞聖人もそうなんですけれども、「海」ということがよく仏教においてはいわれるのです。この「海」というのは伝統のある言葉で、特に天親とか曇鸞なんかは「如来の本願」といったもののはたらきを「海」で表わしているのです。「海」というのはあらゆるものを呑み込んでいきます。濁ったものも汚れたものも全部呑み込んでいきます。そしてそれを全部海の水に変えてしまう。そういうはたらきを「不宿」と「転成」とで表わされているのです。それは浄化作用といっていいでしょう。『正信偈』にも「凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味」とありますね。「如来の本願」は、いかに煩悩に汚れているものでも、その本願にひとたび触れることがあるならば、必ずそのものを浄化するというはたらきとして、我々の上にはたらいてくるのです。
 この「転成」ということがどういうことか、ということがずっと気になっていたのですが、この太田竜の論文を読んでいく中で、太田竜という人は本当に人を愛することを知らないのではないかと思えたのです。そして人を愛し人を尊敬することを知らないものは必ずニヒリズムになるということです。私達がニヒリズムにおちていくのは、本当に尊ぶべきものを見出すことができないし、本当に愛することを知らないということなのです。ドストエフスキーもいっているのですけれども、地獄の苦しみとは本当に愛する能力が欠如していくということなんですね。そうしたものが生きていくところは地獄なんです。


@一切衆生悉有仏性ということ

 「如来の本願」というものが一つの転成としてはたらいてくるもとには何があるかというと、衆生に対して絶対的な信頼、絶対的な尊敬です。これは大乗仏教のことばでいうと「一切衆生悉有仏性」ということですね。だからどんな形でも生きておるものに対しても「汝は仏性を宿すものだ」「汝は尊いものだ」と如来が衆生に南無するのです。「如来の本願」というのは如来が衆生に南無することです。だからお前は駄目だという形では始まらんのです。お前らは滅びる以外にないのだというのではなしに、差別をして生きておるものにすら如来は南無するということです。衆生に対して決して絶望しないわけですね。だから、如来の本願がどう起こされたかというのではなしに、如来が本願を立てられたが故に私が如来に南無されている。如来によって尊敬され愛されておるということが始めにあるわけです。
 その尊敬している証拠が「畢竟呵責」とか「畢竟軟語」とかと説かれているのです。「畢竟軟語」とか「畢竟呵責」とは、そういうふうに生きることが本当にあなたの願っていることなのか、それは本当にまことなのか、というふうに語りかけてくるものなのです。と同時に、非常に厳しくそういうふうに生きることは駄目なんだ、本当に自分を尊んでいくことではないのだ、と批判がなされるのです。しかしそれは愛するが故にという慈悲にみちたものなのです。
 たから「転成」というのは始めに尊敬するということ、始めに礼拝するということがあって、堕落している現実をおもむろに開発していくのです。『大経』にある「悲化」というのはそうした大悲をもって、堕落しておる衆生を教化していく、浄化していくということなのです。

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