坊主の家計簿

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 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『解放』と『侵略』

2008年11月01日 | 坊主の家計簿
 11月1日

 外食  メシ          557円
 食類  チキンラーメン5    288円
     梅ジュース6      288円
     諸々          196円

 合計             1329円
 11月累計          1329円

 何やら航空自衛隊の田母神氏という人が更迭されたそうな。更迭された事よりも、論文の内容よりも、『田母神』っちゅう名字に一番ビックリしているのだが。検索してみると『福島県郡山市田村町田母神』っちゅう地名があるので、ここの出身なのかな?どういう歴史で『田母神』っちゅう地名やねんやろ。なんか、むっちゃ気になるわぁ。

 っちゅうても、11月は結構忙しいので、地名由来を調べているヒマもなく、ダラダラと酒を飲みつつ。

 その田母神氏の論文は読んでいないのだが、テレビで取材されてた学者さん曰く、何やら、結構『雑』らしい。具体的な一例として「この年が1年違う」とか、そういう部分で『雑』らしい。
 まあ、日本政府が『村山談話』っちゅうもんを継承しているのだから、更迭は当然か。
 
 『侵略』と『解放』
 なんか、最近、どっちの見方でも出来るもんだなぁ~、と思う。
 私は前の日本がやった戦争は『侵略』であった、と考えるが、まあ、『解放』っちゅう意見もあるのだろう。
 では、日本はアメリカに解放されたのか?っちゅう事もある。別に解放されたわけではない。日本軍国主義から、日本の民衆が戦争責任を戦犯だけの問題にして『解放された』とは思わん。純粋に『戦争に負けた』だけの話である。その結果、日本には今現在も米軍基地があり、アメリカ様々である。
 また、アメリカがイラクを『解放』したとも思えん。単なる侵略であると考える。
 まあ、この辺が戦後民主主義教育を受けた私(達)にとっては平均的な回答なんだと勝手に思う。
 けど、これが『大峰山』とかの問題になるとどうなんだろうか?女性解放の過激グループが大峰山を『解放』に向った事件があったが、あれは『解放』なんだろうか?それとも『侵略』なんだろうか?
 当然、私は『侵略』と考える。現地の大多数の人達が嫌がっている現状の中で解放もクソもないだろうに。
 
 多分、っちゅうか、間違いなく、日本がアジア諸国にした侵略戦争を、大真面目に『解放』であった、と考える人は、まあ、今では少ないだろうが、あの当時はかなり多く居たのではないのか?
 同じく、アメリカが日本や、朝鮮半島や、ベトナムや、アフガニスタンや、イラクでやった事を、アメリカ国内の多数の人達は『解放であった』と思っているのではないのか?
 同じく、一部の女性解放運動家達が大峰山の人達に対してした事も、あの人達は『解放しに行った』と思っているのではないのか?

 田母神氏の論文は読んでいない。故に、ひとまとめにする事はダメな事なのだが、それから関連して思う事もある。
 前の日本の戦争は侵略ではなかった、という意見を持つ人達も居られるようである。
 そこに『罪意識』はない。
 何故、解放の為に、人が殺されなければならないのか?
 何故、解放の為に、現地の人達の涙が必要なのか?
 それ等を無視した『解放』って、一体、何の解放なんだろうか?口は悪いが、所詮、『自分達さえよければイイ』ではないのか?
 自分達が考える思想、論理、宗教観等によって、相手を見ずに『解放してやった』なんぞと、どの口が云えるのか?
 近代化の為、人権の為、等の大義名分の『解放』によって、何故、現地の人達が殺され、あるいは涙を見せなければならないのか?

 『正しい側』に立ちたがる。いや、『正しい側』にしか立てない。
 「悪いのはあいつ等だ!」でしかない。
 故に、『敵』なのだ。あるいは、『解放されなければならない人達』なのだ。
 誰にそんな権限があるのだろうか?誰が、一体、どういう思想でもって、そんな傲慢な発想を許したのか?そういう発想を許す思想、宗教観は、一体、どんなもんなんだろうか?
 私、あるいは、私達が正しくて、私、あるいは私達と違った意見、あるいは思想、宗教観を持っている人達は間違っている事は当り前である。正解を判断し、握りしめているのは、私(達)なのだから。自己中心的なエゴであるが故に、『他者』が間違っているのは、『間違って見える』のは当り前なのだ。

 ある先輩念仏者を思い出す。別に、いわゆる『僧侶』ではない。ただ単に、念仏者の先輩として尊敬しているだけの話である。
 その先輩は、大阪でも結構有名な運動家でもある。憲法9条関係でも有名である。
 その先輩が、仲間達が云う『憲法改悪』という言葉を批判しておられた。まあ、具体的な言葉は忘れたが、「自民党の人達が一生懸命に考えた憲法改憲案を『改悪だ』等と呼べるのか?」みたいな感じで。
 当然、その意見は『過激』ではない。
 じゃ、『過激』ってなんなんだろうか?他者を排除する、自分が正しくて、他者を排除するのが過激なんだろうか?そういう事が『過激』であり、また、「改革の為には犠牲も必要だ」が改革なんだろうか?単なる排除でしかないのではないのか?
 
 悪者を見つけては排除する。
 私は田母神氏を、戦前日本を、アメリカを、一部の女性解放運動の人達を『悪役』に仕立てる事によって、私は善人になろうとして、つまり「私は正しい」として、書いている。
 こういう私は0点でしかない。
 他者を裁ける権限等、誰にもない、と書きながら、平気で他者を裁いている。

 「謝らないとアカンなぁ」
 と、学生時代に恩師より云われた言葉を思い出す。
 他者を裁く資格なんて、誰にもない。だから、申しわけございません。

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