坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

俺達みんなトドだぜ(by友川かずき)

2007年06月27日 | 坊主の家計簿
 6月27日

 雑費  缶コーヒー       120円
 外食  らーめん        590円
 食類  レバニラ        149円
     餃子          100円
     納豆           39円
     カマボコ2       196円
     発泡酒         175円
     キムチ          88円
     しょうが漬け物      98円

 合計             1555円
 6月27日         76951円

 明日(28日)休みなんだが、飲みにも行かず部屋でゴロゴロと。っちゅうか、さっきまで寝てたんだが。
 右下の歯の治療が始まって、昨日歯の神経が入った部分を掃除してから若干腫れているし、こんな時に飲みに行くのは少し危険である。っちゅうか、部屋でも酒は飲むのだが、休みの前の日に飲みに行くと二日酔いの心配がないからムチャ飲みしてしまうし。
 きっと
 「マスター。。。あおいちゃんが結婚してもうたやんけ。。。おかわり」
 を数軒ハシゴしながら永遠と続く事だろう。それは危険である。きっと明日のは右下がパンパンに腫れてしまって微熱も出てしまっている事間違いなしだと思う。。。
 っちゅうか、明日は街に出る用事があるのだが。用心、用心と。

 毎日気になるニュースが沢山あるのだが。。。
 組員の入居、愛知の町営住宅が拒否…国の指針に基づき
 ウゼーな。いや、「ウゼー」で済む話ではないのだが。
 人権とは誰にでもある。はずだ。「○○の事をした人にしか人権は与えません」でもなく、「○○の事をした人からは人権を奪います」なら『人権』は『特権』になる。
 このニュースというか、http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070601k0000e040038000c.htmlなんだが、ようするに暴力団組員に人権はないと。まあ、裁判でも暴力団が絡むと量刑に変化があるらしいが。
 
 「だってヤクザだから当然じゃない」の意見の方が多いのかもしれない。
 私にはそれが怖い。ヤクザだって人間だ。当たり前の事である。
 「ヤクザだから仕方がない」とはおかしな話だ。

 仏教界にも似た動きがある。
 「義理かけ」法要への協力防止
 大谷派も総務部より似たような『お願い』が出されている。
 いったい、何が普通の法要で、何が義理かけ法要であるとどう判断するのだろうか?社葬と組葬を差別しろというのか?
 っちゅうか、それ以前に私に寺はないのだが。。。

 世の中がどんどん、どんどん綺麗になっていく。「美しく」なって行く。
 御坊様達は教育基本法の改正に先立ちボランティアを叫ぶ。暴力団排除に協力する。視点は『御上』である。決して『極悪人』ではない。
 死刑に反対する事は「美しい」ではない。「どんな人間でも」という立場ではないのか?

 戦争で人を殺せば英雄だ。時代が変われば戦犯だ。
 人間限定の論理。
 食べられる為に存在している命などない。食べる為に殺す事は多分人肉以外には罪にはならんのだろう。法律的には。
 宗教ではどうなのか?
 仏教ではどうなのか?
 殺生とは対人間だけの話なんだろうか?



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   朝焼け小焼だ
   大漁だ
   大羽艦の
   大漁だ。

   浜は祭りの
   ようだけど
   海のなかでは
   何万の
   鰮のとむらい
   するだろう
 (金子みすゞ『大漁』)

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 人間社会だから人間社会の共同体のルールでもって裁く。『罪』。
 「殺して食べるのは人間ではないから」と差別する。
 「害虫だから殺してイイの」と差別する。

 「だって、あの人ってヤクザじゃん」と差別する。仲間達として葬儀法要等に仏教界は拒否する。公営住宅に入れない。

 「我々一般市民にだって人権はある。隣にヤクザが住んだら困るだろう。」と差別する。

 世間でヤクザに対する差別が産まれるのは解りやすし、なんとなく納得も出来る。私は反対だが。
 けど、仏教界、特に真宗系の教団、つまり我が大谷派がそれに便乗するのが私には理解出来ない。
 大谷派は、真宗仏教は、善き一般市民だけの味方なのか?それとも極悪人も含めた人と共に生きようとしているのか?
 当然『教団』とは娑婆との狭間なんだし、よって『お願い』なんだろうが、やはりおかしい。

 人間中心の社会の中で、ヤクザを差別(排除)した。次は誰を差別(排除)する事を肯定するのだろうか?

 光市母子殺害事件のニュースが今日も大きく取り上げられていた。見た報道では、要するに「殺せ」という事ではないのか?
 21人の弁護士達は恐らく発達障害で行くのかな?見苦しい。本当に見苦しい。
 判決がどう出るのかは解らない。恐らく最高裁での差し戻しなんだから死刑判決になるのだろう。その可能性が大きいのだろう。
 だが、あの『元少年』は21人もの弁護士が見苦しいまでの論を立て、マスコミに21人それぞれの実名と経歴を書かれてまで、人権を奪った犯罪者に対して、「私たちは決してあなたの事を差別しない」という事に感動しているのだろうか?
 詳しい事は知らないが、恐らく彼に21人もの弁護団を雇う金はないはずだ。きっと死刑制度に反対する弁護士達が手弁当で弁護していると思う。国選弁護人が21人なんぞ変な話だし。
 
 ヒューマニズムには2種類あると思う。浅いヒュ-マニズムと、深いヒューマニズムと。
 浅いヒューマニズムとは『個人の都合』である。
 深いヒューマニズムとはその反対である。個人の都合を越えた所に真のヒューマニズムがある。
 「ヤクザだから」
 「極悪人だから」
 は、個人の都合だろうが。差別だろうが。

 都合の悪い自分&他人を殺す。認めない。
 「美しい」理想の、妄想の、幻覚の自分。
 そんな事を『当たり前』として、肯定して、うっとうしくないか?

 「ああいう状態になったら、殺されても排除されても仕方がない」
 は、自分を粗末にしてるだけやろ。