坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ギミー・ヘブン

2007年06月24日 | 坊主の家計簿
 6月24日

 食類  ねばねばサラダ     149円
     揚げ出し豆腐      100円
     若鮎天ぷら       148円

 合計              397円
 6月累計          65753円
 
 雨や。。。朝から晩までずっと雨や。。。
 と、ひとまず『雨』のせいにして晩飯作りを断念。閉店間際スーパーで半額のお惣菜を買って、後はそろそろ食べんとあかん冷麺で済ます。

 っちゅう事で惣菜メシを喰いながらギミー・ヘブンを観る。
 あおいちゃん観たさに借りただけなのだが、かなり良かった。

 本当は誰とでも仲良くなれた方がいいのかも知れない。でも、心が狭いっす。。。
 「どうせ誰も解ってくれへんねん。。。」とか。
 まあ、当然、んな事はなく、っちゅうか、全てを解りあえる事等あり得ないし。それが『他人』である。
 なんだが、期待が大き過ぎると「どうせ。。。」になる。勿体ない。。。
 「解りあえない事」を前提にすると、少しでも解りあえたら嬉しいではないか。

 「どうせフリチンについて語り合いたい俺の事を誰も解ってくれへんねん。」
 そんな事はない。そんなあなた達の為の素晴らしいmixiコミュニティーがここにある。
 http://mixi.jp/view_community.pl?id=2258727
 さあ、みんなでフリチンについて語り合おうではないか!

 ん?
 本当は誰とでも仲良くなれた方がエエのだと思う。
 映画の中の宮崎あおいちゃんは同じ『共感覚』を持った人をずっと探していた。で、出会えた。ようやく出会えた。
 その後、その二人での関係だけに閉鎖したなら一人が二人になっただけだ。
 違うと思う。
 あおいちゃんは今までスネてただけだ。マイノリティーに甘えてただけだ。
 映画の中で共感覚の人がこんなセリフを云う。
 「誰が空が青いと決めたんだ。誰かが決めた事によって俺は苦しんで来た」
 あおいちゃんはミッキーマウスが気持ち悪い絵としか感覚出来なかった。そして、同じ感覚を持つ人に出会えて嬉しかった。

 「人って、それぞれ違うね。だって他人だもんね。」

 「あなたは私の苦しみを解らない」と云われたら
 「なんで解らんとアカンの?」と今の私は答えるだろう。
 まあ、時と場合によるが。私は優しくないし。

 あおいちゃんはずっと探し求めて来た人に出会えた。そのシーンは本当に美しい。
 でも、じゃあ、これからどうするの?変わらず同じ感覚を持つ人としか付き合わないの?

 御近所には様々な他人がいる。色んな立場の人達が居る。
 どこのどんな人でも他人として尊敬して、違いを尊重して生きていければエエな、と思う。
 それは、右翼とか左翼とか、宗教とか、思想対立でなく、別のベクトル。
 ティクナットハンは南にも北にもつかなかった。だからベトナムからフランスに亡命せざるを得なかった。

 個々の自他を尊重する。無条件。敵も味方も関係ない。
 共に執着する存在としての人である。

 ただ、その最初に「解りあえる」作業が必要だったりする。
 「どうせ俺の事なんて誰も解ってくれへんねん」
 とは、今でも思う。でも、今はそれがおかしいと思える。
 それはその事が当たり前であって、そこから人を見下していた時とは、その事が『問題である』という所だけ違う。
 「どうせ俺の事なんて誰も解ってくれへんねん」
 とは、自他を尊重していない。それは苦である。そんな苦なんぞうっとうしい。
 
 ただ、苦に酔える。苦は酔える。高慢だろうが、卑下の慢心だろうが酔える。
 「無知な大衆を目覚めさす為の運動」とかいう、あれである。
 ポアの論理である。
 排除の論理である。

 排除は変わらず好きだし得意である。
 でも、うっとうしいで、それは。
 違いを認め合うから、私という個性があきらかになるわけやし。
 【あなたはあなたに成ればいい。あなたはあなたであればいい】
 やったっけ?そんな言葉があるが、結局、他人を排除するのは自分に対する信頼がないだけの話であって、つまりそれぞれの『個』を認めていないだけの話。自分だけの『個の尊重』なんぞは『変わりゆく自分の否定』やし。理想の自分に縛られている、つまり「こういう自分は認めるけど、こういう自分は認めない」やし。
 「どんなあなたであっても、私だけは決して見捨てない」
 っちゅうのとは違う話や。

 排除と出会いを求める事は全然違う。
 排除で社会運動が成り立つわけがない。
 出会いを求めるが故の社会運動である。

 例えば
 「あなた、私たち女を差別してますけど、それは偏見ですよ。そんな偏見を持ったままで、あなたは苦しくないですか?」
 と、
 「女を差別する人達は決して許さない」
 とでは全然違う。ベクトルが違う。
 
 真宗仏教でいうのなら、排除されても尊敬し続けるのが真宗の運動論である。流罪にした側の為に祈る運動論である。法然が流罪にあった時に残された弟子に「常不軽菩薩のようになりなさい」であったり、安楽は後鳥羽上皇に念仏を勧めた。決して排除する側の論理に立たなかった。

 ん?
 とりあえず宮崎あおいちゃん目当てで観たギミー・ヘブンは、おもろかったし、あおいちゃんが相変わらず素晴らしい。やっぱり天才やな。