6月13日
雑費 レンタル3 315円
外食 回転寿司 627円
食類 もずく 84円
カットパイン 100円
いちご 198円
和牛 276円
麺類4 100円
合計 1700円
6月累計 33085円
レンタルは
ホテル・ルワンダ
サウンド・オブ・サンダー
インパクト
今日はお休み。ゆっくりと、お休み。ゆっくり寝てたなぁ。。。
で、サウンド・オブ・サンダーを観る。なんかコンピューターグラフィックばかりで頭が痛くなるのだが。。。
「過去に存在していた虫一匹ですら、今の私たち世界を作り出すために不要なものは一切ない」という『おかげさま』の映画。
ニワトリはハダシだも観る。こっちは15日までに返却せんとアカンし。
この映画は上映当時に第七藝術劇場に観に行きたかったのだが。。。そういやここには『関西リサイクル運動市民の会』っちゅう所で働いて居た時の先輩が居るはずなんだが、今でも働いてはるのかな?今度『風まかせ人まかせ』に行った時に聞いてみよ。
映画は、まあ、『映画』だ。少し色んな素材を盛り込み過ぎた感じも受けるのだが、舞鶴に久しぶりに行きたくなった。在日の人達、知的障害者の人達、その周辺の人達を上手く映画にしている。倍賞美津子が変わらず素晴らしかった。ついでに昨日久しぶりに会った21年前(つまり18でんな)のオッちゃんが甲山事件の支援をしてたし、なんか、そんな事も思い出しつつ。。。
共同作業所の兄ちゃん(当時はまだ中年ではない。兄ちゃんだ)だった事もあって、その時にも職場の人達、まあ、厳密にいうのなら職場で一緒に働いて居る『知的障害』と呼ばれる人達とその親も含めたミーティングが定期的にあった。
変な話なんだが、普段は普通に働いて居るだけなのでそこが『共同作業所』である事を忘れてしまうのだ。知的障害を持った人でも、まあ、「そういう人」やし。
でも、そういう人達の親同席のミーティングでは職場でのその人達の様子や、家庭での様子なんかも話し合ったりする。「おお!作業所やってんや」と再確認したりするわけだ。
でも、そのミーティングは確か何ヶ月毎やし、他の何ヶ月は普通に働いているわけだ。そっちが日常やし。日常の仕事の中に障害者がいるだけの話。まあ、「そういうヤツ」でしかないしなぁ。。。
仕事の能力なんぞバラバラだし。それは別に『障害者』と『健常者』との差だけでなく、当然『健常者同士』でもやっぱり差があるし。
経験でいうと当然、その作業所を作った創立メンバーの一人がチーフなんだが、結婚してて子どもも居てて、チーフとしてバリバリ働いて、でも、手当の都合上で私よりも給料が安かったりする。
かなり『運動』かかった作業所だったので、基本給は同じなのだ。あとは手当なんだが、私は配達をする事が多く『配達手当』があった。チーフは現場でバシバシやらんとアカンので配達には行けないので配達手当がなかった。
創立メンバーで、しかも、その作業所の前身である場所の購入した金の多くも、チーフが以前に働いていた会社での労働争議で勝ち取った金やし。でも、何故か給料は私より安かったわけだな。花岡事件の運動家でもあったし、カマの運動家でもあったし、色々と金がかかると思うのだが、まあ、タバコはエコーか何かだったし(笑)
能力を誇らない、自分が何をやっているかを誇らない。
と云う事を、あの2年間で実際に生きている『人』がいる事で教えて貰った気がする。
だって、新米の私より給料が安いんでっせ(笑)
運動家とは、ああいう人の事をいうのだろうと私は思う。
当然、違うパターンの運動家も居る。のちに政治家にもなった『関西リサイクル運動市民の会』の代表なんぞは、『いわゆる運動のノリ』がキライだった。『いわゆる運動のノリ』ではリサイクル運動は市民権を得られないと真剣に考えていたし。その結果、非常にエエ仕事をしてくれたわけだし。それは今日の状況をみても解る。
さて、大谷派のいわゆる社会運動に関わって居る人達のごく一部に、いや、大谷派だけでなく、いわゆる社会運動に関わって居る人達のごく一部に『特権意識』がある事を私は批判しているのだが、その証明が実は最近出来たのではないのかと感じている。
私は人間の基本は差別者である、と信じている。問題は、その事を『問題にするのか』『問題にしないのか』だけの違いであると考えて居る。
それは何をやっていても、つまり社会運動だろうが、反差別の運動をやっていようが同じである。むしろ、『社会運動』『反差別』に関わって居る事によって、その感覚が麻痺してしまう危険性を感じる。それが怖いのだ。。。
「だったら、お前は何かやっているのか!」
とかでんな。。。そんな事で批判をかわす。批判されない聖域に自分を置く。当然、『聖域』は魅力的だから、それに囚われる。それが『個人』ならまだしも、仲間内になる。仲間内から、つまり『正義の味方達』と『その他の人』になり、『その他の人』の中から自分たちを批判する人がいたら。。。まあ、ええか(笑)
そんな事が今も昔も変わらずに行われて居る。
行動を誇る。非常に人間らしい。だが、
【念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々】(歎異抄第八章)
だと考えるのだが。。。
行動を誇り、善を誇る。それは非常に人間臭くキライではないのだが、だが、違う。絶対に違う。そういう在り方しか『ない』のが人間なんだろうが、それを肯定してしまっては『悲』は出て来ない。
運動論としての親鸞なら、いわゆる『社会運動』との決定的違いはその辺りではないのだろうか?他力回向の念仏ではないのか?
運動を誇る事によって斬り裁く事はやはりおかしい。そういうおかしな事が増えて来ている感じを受ける。
雑費 レンタル3 315円
外食 回転寿司 627円
食類 もずく 84円
カットパイン 100円
いちご 198円
和牛 276円
麺類4 100円
合計 1700円
6月累計 33085円
レンタルは
ホテル・ルワンダ
サウンド・オブ・サンダー
インパクト
今日はお休み。ゆっくりと、お休み。ゆっくり寝てたなぁ。。。
で、サウンド・オブ・サンダーを観る。なんかコンピューターグラフィックばかりで頭が痛くなるのだが。。。
「過去に存在していた虫一匹ですら、今の私たち世界を作り出すために不要なものは一切ない」という『おかげさま』の映画。
ニワトリはハダシだも観る。こっちは15日までに返却せんとアカンし。
この映画は上映当時に第七藝術劇場に観に行きたかったのだが。。。そういやここには『関西リサイクル運動市民の会』っちゅう所で働いて居た時の先輩が居るはずなんだが、今でも働いてはるのかな?今度『風まかせ人まかせ』に行った時に聞いてみよ。
映画は、まあ、『映画』だ。少し色んな素材を盛り込み過ぎた感じも受けるのだが、舞鶴に久しぶりに行きたくなった。在日の人達、知的障害者の人達、その周辺の人達を上手く映画にしている。倍賞美津子が変わらず素晴らしかった。ついでに昨日久しぶりに会った21年前(つまり18でんな)のオッちゃんが甲山事件の支援をしてたし、なんか、そんな事も思い出しつつ。。。
共同作業所の兄ちゃん(当時はまだ中年ではない。兄ちゃんだ)だった事もあって、その時にも職場の人達、まあ、厳密にいうのなら職場で一緒に働いて居る『知的障害』と呼ばれる人達とその親も含めたミーティングが定期的にあった。
変な話なんだが、普段は普通に働いて居るだけなのでそこが『共同作業所』である事を忘れてしまうのだ。知的障害を持った人でも、まあ、「そういう人」やし。
でも、そういう人達の親同席のミーティングでは職場でのその人達の様子や、家庭での様子なんかも話し合ったりする。「おお!作業所やってんや」と再確認したりするわけだ。
でも、そのミーティングは確か何ヶ月毎やし、他の何ヶ月は普通に働いているわけだ。そっちが日常やし。日常の仕事の中に障害者がいるだけの話。まあ、「そういうヤツ」でしかないしなぁ。。。
仕事の能力なんぞバラバラだし。それは別に『障害者』と『健常者』との差だけでなく、当然『健常者同士』でもやっぱり差があるし。
経験でいうと当然、その作業所を作った創立メンバーの一人がチーフなんだが、結婚してて子どもも居てて、チーフとしてバリバリ働いて、でも、手当の都合上で私よりも給料が安かったりする。
かなり『運動』かかった作業所だったので、基本給は同じなのだ。あとは手当なんだが、私は配達をする事が多く『配達手当』があった。チーフは現場でバシバシやらんとアカンので配達には行けないので配達手当がなかった。
創立メンバーで、しかも、その作業所の前身である場所の購入した金の多くも、チーフが以前に働いていた会社での労働争議で勝ち取った金やし。でも、何故か給料は私より安かったわけだな。花岡事件の運動家でもあったし、カマの運動家でもあったし、色々と金がかかると思うのだが、まあ、タバコはエコーか何かだったし(笑)
能力を誇らない、自分が何をやっているかを誇らない。
と云う事を、あの2年間で実際に生きている『人』がいる事で教えて貰った気がする。
だって、新米の私より給料が安いんでっせ(笑)
運動家とは、ああいう人の事をいうのだろうと私は思う。
当然、違うパターンの運動家も居る。のちに政治家にもなった『関西リサイクル運動市民の会』の代表なんぞは、『いわゆる運動のノリ』がキライだった。『いわゆる運動のノリ』ではリサイクル運動は市民権を得られないと真剣に考えていたし。その結果、非常にエエ仕事をしてくれたわけだし。それは今日の状況をみても解る。
さて、大谷派のいわゆる社会運動に関わって居る人達のごく一部に、いや、大谷派だけでなく、いわゆる社会運動に関わって居る人達のごく一部に『特権意識』がある事を私は批判しているのだが、その証明が実は最近出来たのではないのかと感じている。
私は人間の基本は差別者である、と信じている。問題は、その事を『問題にするのか』『問題にしないのか』だけの違いであると考えて居る。
それは何をやっていても、つまり社会運動だろうが、反差別の運動をやっていようが同じである。むしろ、『社会運動』『反差別』に関わって居る事によって、その感覚が麻痺してしまう危険性を感じる。それが怖いのだ。。。
「だったら、お前は何かやっているのか!」
とかでんな。。。そんな事で批判をかわす。批判されない聖域に自分を置く。当然、『聖域』は魅力的だから、それに囚われる。それが『個人』ならまだしも、仲間内になる。仲間内から、つまり『正義の味方達』と『その他の人』になり、『その他の人』の中から自分たちを批判する人がいたら。。。まあ、ええか(笑)
そんな事が今も昔も変わらずに行われて居る。
行動を誇る。非常に人間らしい。だが、
【念仏は行者のために、非行非善なり。わがはからいにて行ずるにあらざれば、非行という。わがはからいにてつくる善にもあらざれば、非善という。ひとえに他力にして、自力をはなれたるゆえに、行者のためには非行非善なりと云々】(歎異抄第八章)
だと考えるのだが。。。
行動を誇り、善を誇る。それは非常に人間臭くキライではないのだが、だが、違う。絶対に違う。そういう在り方しか『ない』のが人間なんだろうが、それを肯定してしまっては『悲』は出て来ない。
運動論としての親鸞なら、いわゆる『社会運動』との決定的違いはその辺りではないのだろうか?他力回向の念仏ではないのか?
運動を誇る事によって斬り裁く事はやはりおかしい。そういうおかしな事が増えて来ている感じを受ける。