坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

合い挽きミンチ

2007年04月03日 | 坊主の家計簿
 4月3日

 雑費   歯医者          110円
      100均         840円
 古本   サイバラ茸3       950円
 食類   カップうどん4      316円
      合い挽きミンチ      255円
      牡蠣2          256円
      しいたけ         118円
      しょうが          88円
      カマボコ          78円
      玉ねぎ          118円
      八重泉(360ml)2    850円
      冷酒2          298円
      吟醸酒          234円
      こんがりプリン4     258円

 合計               4769円
 3月累計            11376円

 夕方のお参り後に歯医者。今日は昨日抜歯した部分の消毒&点検のみ。しかし、『110円』では缶コーヒーも飲めんぞ。
 
 後に少しフラフラと御近所散策。ブックオフに寄って立ち読みして、サイバラ茸 3を買って、100円ショップでビタミンCとかのサプリを買って、一件目のスーパーへ。プリンでっせ、プリン。オハヨーのプリンでっせ。ついでに売れなかったのか何かのか知らんが、まあ要するに少しだけ古いから安かった酒を購入。
 で、二件目スーパーへ。なんとなくカレーが作りたかったのだ。業務スーパーで買った『味噌汁の具』がそろそろ賞味期限が近づいて来ているのでミキサーで粉砕してカレーに投入。

 『合い挽きミンチ』って凄んごい名称やなぁ。。。しかし。。。まさか、牛も豚もグチャグチャにされて、混ぜこぜにされるとは生前思ってなかったやろなぁ。。。『ミンチ』だけでも結構パワフルな名称なんだが、『合い挽き』っちゅうのも強烈な言葉やなぁ。。。

 朝方にラジオを聴いていたらラジオのキャスターが愛知県の神田真秋知事が障害を持たれた方に対して「弱い遺伝子、悪い遺伝子を持った方」と表現したニュースを紹介していた。(http://www.asahi.com/national/update/0403/NGY200704030001.html
 まあ、当然、この発言は問題であり、明確な差別発言なんだが、でも、ラジオを聴いていてて「ん?」と感じた。
 それはそのキャスターが「この人にはそういう意識があるからそういう言葉が出てくるんだ」と。「私にはそういう意識がないから出て来ない」みたいな事も語って居られた。
 『意識する』あるいは『無意識』の言葉の厳密な所はどういう意味合いで語って居られたのか解らないが、え~。。。人の心はそんなに綺麗か?
 『遺伝子』という云い方はともかく『悪い因果』とかなら、つまり「障害をもって生まれて来たのは悪い因果があったからだ」等とはタマに聞くぞ。遺伝子なら優性思想か。まあ、別に珍しい発言ではない。問題ではあるが、別に珍しい発言ではない。『悪魔の思想』と呼ばれた『優性思想』だ。

 で、
 「この人にはそういう意識があるからそういう言葉が出てくるんだ」
 と云う言葉が今朝から頭に引っかかる。
 『意識』と云う言葉を『思想』と置き換えるなら非常に解る。明確に思想的に優性思想を持って居る。「そういう思想を持って居るからそういう発言をするのだ」なら。
 しかし、そうではなく、ただ単にフトした弾みに心の中の差別的な部分が発露しただけの話でしかない気がする。そして、そういう差別的な悪魔的な部分は誰にでもあるのではないのか?
 
 『美しい心』とは、そういう心の中のドロドロした部分を他人事にして「私はそういう心を持ち合わせて居ません。」ではないと考えるのだが。
 「私は心の美しい人間であって、あの様な悪魔みたいな発言をする人は悪魔が取り憑いているのです」とは言い過ぎなんだろうが、まあ、魔女狩りみたいな感じやな。

 心の醜さ、ドロドロした部分を見ない事は簡単だ。認めなければイイ(笑)
 そしてそれがこと『差別』と云う事に関しては一番の問題だ。

 暴力性もしかり。「男は横暴で、女は平和的」等と云う偏見をいまだに語る方もタマに居られるが、事実から関心をそらしたいだけ。暴力性は誰にでもあるんだろうし、同時に当然の如く暴力はよくない。

 「たまたま私は差別発言も今までしなかったし、暴力事件も起こしていない」ならともかく、「私は違う」とは違う。
 「そういう事をする人達はきっと悪い遺伝子が備わっていて。。。」とまでどうせなら云えば解りやすいのだが。。。

 しかし、『認めたくない』。悪い事は認めたくない。悪い心も認めたくなく『他人事』にして斬り裁く。

 『海を飛ぶ夢』というDVDを観てた。尊厳死の物語。非常に内容の濃い映画であり、映画の背景に様々な議論があった事を感じされる秀作。

 私も当然の如く「思い通りに生きたい」。「仏教徒が何を云うてるねんや」っちゅう話なんだが、まあ、「思い通りに生きたい」し、普段は『思い通りに生きる』べく、『思い』に従い生きている。
 その『思い』が適えられない、映画の中の主人公のように28年間ベットで寝たきりの状態はまさしく『苦』であろうし、それ故の尊厳死なんだろうが、「やっぱり違う」と云いたい。気持ちは解るけど、やっぱし思いを適えたいし、思いが適えられない事は『苦』そのものであるが、でも、違う。様々な議論があり、映画の中の主人公のモデルになった方も様々な議論をしてきた事だと思うが、やっぱり違う。

 それは生きている私の問題であって、『今』生きている私は思いを適えようと日々あくせくしながらも、迷いの再生産を続けながらも、迷いはあくまでも迷いなんだし、生きている事実は事実でしかない。

 映画の中で主人公は「私を愛して居るなら私の思いを適えてくれ」みたいな事を云っていた。「それが私を愛する事だ」みたいな事も。その『思い』とは『尊厳死』である。

 人の心、っちゅうもんはドロドロしているものだと私は信じる。醜いものだと私は信じる。
 でも、当然、んなもんイヤに決まっている。試しに私と直接話してみて私の心の醜悪な部分を『その場』で指摘すればイイ。私は速攻「いや、そんな事はない」とか言い出すだろう。美しい心の私で居ようとするだろう。そういう存在やし。執着する存在やし。

 『自分さえよければイイ』、イチイチ本を引っ張り出すのが面倒だからうる覚えで書くが、戦場で友を沈めて自分だけが生き残ろうとするのが『人間』っちゅう悲しい存在であって、一緒に生活していながらも「自分さえよければそれでイイ」「他人の事など全くどうでもイイ」等と思ってしまうのが『人間』っちゅうか、『凡夫』っちゅう悲しい存在なんだろうし、まずはその事を、つまり『私自身』を『私自身の自己責任』として引き受ける、つまり、そういう悲しい存在が私(達)なんだ、という自覚が大事なのではないのか。
 差別心を認めない事には差別問題の解消はなく、暴力性を認めない限り戦争の問題は解決しない。
 他国に攻め入った事は少なくとも、それ以前は『国内』で戦争多発していた国だし、縁次第によっては、つまり『国際貢献』という大義名分であり、『世界平和の為』という大義名分の縁さえあれば人を殺しに行くのが私(達)だからこその憲法9条ではないのか。
 「差別するのは私ではなく、他人だ」
 「私たちの国は戦争するような横暴な国ではありません」
 等という『他人事』の『美しい心』では何も始まらないと考える。
 本当に美しい心とは心の醜悪さを認めて謝れる心だと考える。

 『よゐこ』とは『都合のよゐこ』でしかない。自分の思いや、『自分』を取り囲む環境にとっての。そんな『よゐこ』に無自覚に反射的になっている。国際貢献でっせ、国際貢献。迷惑かけんと国際貢献でっせ。『美しい心』で国際貢献でっせ。