坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

『愛国』と『憂国』

2007年04月01日 | 坊主の家計簿
 4月1日
 
 雑費  缶ミルクティー       120円
     フライパン        1180円
 薬局  エスカップ12       648円
     ウコン          1344円
 食類  ネギ            100円
     豚ロース          160円
     手羽先           113円
     つみれ           115円 
     もずく           117円
     ピーマン          100円
     餃子2           250円
     麺類4           100円
 
 合計               4347円
 4月累計             4347円

 当然の如く体調整わず。この『4月1日』っちゅう新年度早々へたばってるわけやね。まあ、昨日はロクにメシ喰ってないしなぁ。。。しゃーない、しゃーない。
 
 法事とかもあって結構忙しい日。よって、筆ペン練習の予定だったのだが、届いたばかりの鈴木邦男『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)を読む。筆ペン練習のはずだったのだが、トイレに入る時に持ち込んで読み始めたら、これが面白くて止まらなくてやなぁ。。。
 当然、私は鈴木氏と違って天皇制反対である。この御時世に時代遅れだろうがなんだろうが反対なもんは反対や、っちゅうねん。『聖職者』の権威は認めない。それが『出家僧侶』だろうが、『法主』だろうが、関係なく認めない。人間は人間である。それ以上でもそれ以下でもない。よって『それ以上』の『天皇』は認められん。
 だが、やはり鈴木邦男氏は面白い。
 それは

【これこそが本当の愛国心だと言挙げしているうちに、その刃は自分にも向かってくる。「お前だって偽物だ」「形や量だけにこだわった薄っぺらな愛国者ではないのか」と問いつめてくる。愛国心を最も誤解していたのは自分かもしれない。愕然とした。】(あとがきより)

 に現れる人間性、誠実さなんだろうと感じる。この辺は某リベラル精神病理学者がレッテル貼りまくって差別している事に無自覚なのとはエラい違いだ。
 
 内容で注意すべき点は、『愛国』と『憂国』を分けている。

【まず愛国とは保守的であり、憂国は革新的である。フィヒテの友人のように、愛国はともかく美点を見つけ出し賞めなくてはならない。「この日本を愛する、好きだ」と言う時は、この日本のすべてを認め、愛する。現状容認だ。これを変えるのは嫌なのだ。現状維持的であり、保守的であり、受身だ。
 憂国とは、この国の状態を憂うるのだ。もちろんこの国は好きだし、愛情はある。しかし、これでいいのかと怒り、憂うるのだ。ここがダメだ、ここがダメだと指摘する。愛国は長所・美点を探すが、憂国は欠点を指摘する。】(P61より)
 
 そして、『東アジア反日武装戦線<狼>』ですら
 
 【大きく言えばこれも憂国だろう。】(P62より)

 と云う。
 この辺が、鈴木邦男氏が保坂展人とも親交がある由縁なんだろう。

 で、現状でならこれか。

【憂国は部分的で短期的だが、愛国は全体で長期的だ。「憂国の士」はそれほどいない。しかし、「愛国」は全員が強制される。「愛国心を持つのは当然だ」「国民の常識だ」と言われる。戦争の時は特に顕著だ。その全体の流れに対して消極的な人間は、「非国民!」「売国奴!」と言って袋叩きにされる。つまり、愛国心は、そうでない人間を排除し、罵倒するために使われることが多い。これは危険なことだ。「憂国」よりも「愛国」の方が何百倍も凶暴だし、残忍だ。】(P68より)

 この本を読んで私が『右翼』を勘違いしていた部分が多くあることに気づいた。
 確か、以前に誰かが云っていて、私もそうだと感じたのだが、「右翼」とは蔑視の言葉であった。「お前は右翼か?」とは侮蔑用語だったのだ。それは学生運動が盛んであり、インテリ左翼の勢いが盛んでもあり、その影響下で育ったからだと思う。
 変わらず天皇という犠牲者を出す天皇制は認めることは出来ないし、天皇が国体だとも思わないし、認めない。しかし、『天皇=国体』論にしても、その事を『絶対的』としていうのでなく、『世界市民』に至る過程として捉える方法もあるのだと云う事を知った。それは別に天皇制の輸出でなく。大真面目にそういう方法論を考えて居るのが『右翼』である事を知った。

 そういう意味での『右翼思想家としての西光万吉』っちゅう視点もありやな。
 (http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8947/kaminokuni.htm

 まあ、『右翼』というだけで、偏見からしか読もうと思わなかった事はもったいなかったな。
 『右翼の大物』鈴木邦男氏は、その辺のつるつるリベラリストよりも遥かに『排除』っちゅう事を敏感に考えて居る。
 つるつるリベラリストは、『正義』っちゅう事に酔う危険性に対する歴史的な反省が右翼よりは少ないのかも知れない。これは未だに戦争賛美している人達と変わりないのかも知れない。全共闘の反省が充分に自己批判出来ているかどうかの問題か。そういう意味ではこれまた『転向した』と噂の元赤軍派議長塩見孝也氏の本も読んでみないとアカンな。
 鈴木邦男氏も、塩見孝也氏も『転向した』かも解らんが、それは単に、様々な人達との交流によって議論が深まっただけの話の様な感じもするし。

 え~。。。その前に「筆ペンの練習せえ!」っちゅう話なんだが。。。