坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

ピグモン

2007年03月14日 | 坊主の家計簿
 3月14日

 雑費   缶コーヒー         120円
 食類   板チョコ2         188円
      カップ麺2         196円
      納豆             68円
      激辛キムチ         158円
      レンジで焼そば2      196円
  
 合計                 926円
 3月累計             59286円

 誰か香山リカを精神科医に診せたれ。。。
 
 いやでんな。今日は一日遅れで公文にテキスト提出しに行って、で、今週の予定を考えると今日も多少やっとかんとアカンかったので公文筆ペン練習をしてやな、仮眠もしたり、何じゃかんじゃしてたら23時過ぎになってもうてやな、「うわ!今からUDON観たら1時半やんけ!」とやな、で、仏教書を読む根性はないので、香山リカ『<私>の愛国心』を少し読んでたんやがなぁ。。。イマイチ、っちゅうか、香山リカはホメ殺し状態なのか?ちょい、議論が安い気がするのだが。。。読んだ所まででの感想でしかないのだが。。。

【またある人は「少年犯罪から地域を守るためには、少年法の厳罰化を進めよう」「精神障害者が犯罪を起こすことを防ぐために、触法精神障害者を隔離する法案を作ろう」と言い、さらには「悪の根源であるサヨクを叩いて、国を愛する人になろう」とナショナリストになったり、「悪しき男女平等主義はやめて、男は男らしく、女は女らしく」と反フェミニズムを掲げたりする人までが出てくる。
 しかし、アウトプットの形は違っても、これらはすべて「内なる不安を打ち消して、自分は大丈夫、負けていない、と安心したい」という思いが分節化したものだと言えるのではないだろうか。】(ちくま新書 香山リカ『<私>の愛国心』91~92より)

 と、香山リカは本に書く事によって内なる不安を打ち消す為に、「私は正しい」と思い込みたいが為に先に掲げたような人達を見下し、憐れむ。
 と、私は書き込む事によって香山リカを見下し、憐れむ。

 まあ、焼そば250円のミクシィで、のんき食堂のオカンが自分の子どもとフリークスのDVDを観てて、
 「おかあさんっ、みて ほら、あのこ」
 「....うん、みんないっしょ、みんないっしょや」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371196789&owner_id=6373096より無断転載)
 の方がエエ感じでっせ。

 ちなみに私は香山リカが掲げているような事には全て明確に反対である。少年犯罪なんぞ「ガキはグレてナンボや」やし、精神障害には周囲の理解での共生しか方法がないと考えて居るし、左翼離れはしているが愛国者と仏教徒は相容れないと考えるし、『男は男らしく』『女は女らしく』っちゅうのは単なる『偏見』でしかないと考える。
 &、これらの事は結構何処ででも話す機会があれば話している。
 が、「内なる不安を打ち消して、自分は大丈夫、負けていない、と安心したい」とは思って居る。そんなもんは死ぬまで消えないとも信じている。

 差別化というのは楽しいものだ。それは香山リカが明確に「内なる不安を打ち消して、自分は大丈夫、負けていない、と安心したい」と書いているような事だと私も思う。まあ、「私は正しい、間違っていない」か。
 で、これは当然、ウケる。老若男女問わずにウケる。

 それぞれが、それぞれの立場から「私はこう考える」と、その人の思想信条を述べ、その正しさを証明する為にやっきになる。まあ、んなもんだろう。私もそうだし、そうだと思う。
 でも、それはあくまで『私』であり、『私が掴んでいる正しさ』でしかない。その『私』を、それ以外の部分、例えば『公』『絶対的』等の『私』を超えた部分と混同してしまったりする所に『愛国心』の危なさがあったりするのではないのか。つまり排他的になってしまう。
 それは当然の如く『愛国心』を標榜する右翼、ネット右翼だけではなく、左翼だろうが、仏教者だろうが、なんだって変わらない。
 特にインテリであればある程、知識で武装出来る分だけ業が深い。知識で武装出来る分だけ、その知識が『私』を凝り固めてしまう。
 あるいは『現場主義』でもイイ。「私は差別されている立場である」でも、「私は差別されている人達と多く交流がある」でもなんでもイイ。その事で『私』を凝り固めてしまうのなら、『解放』という言葉には当てはまらない。
 『私』を凝り固めてしまう為にはなんだって使う。そんなもんじゃないのかな。
 香山リカも少し触れていたので書き込むが、例えば『女性』。『女性解放』は単に「女性だけが解放されればイイ」と云うのならエゴだろう。解放運動の中の『女性としての立場』なら共感出来るが、「女性だけが解放されればイイ」のなら、勝手にやっとけ!っちゅう話やな。単にプライドが高いだけの話で、そんなもんは知らん。興味ない。『女らしい』のと一緒やんけ。『女性解放』という名目で『私』を凝り固めているだけ。
 しかし、まあ、そんなもんだ。死ぬまではきっとそんなもんなんだろう。死んだ事ないから解らんが。
 そんな所で

 「おかあさんっ、みて ほら、あのこ」
 「....うん、みんないっしょ、みんないっしょや」
 (http://mixi.jp/view_diary.pl?id=371196789&owner_id=6373096より無断転載)

 なのか、『違う』と言い張るのかの違いだと考えるのだが。

 っちゅう事で、香山リカの『<私>の愛国心』を92ページまで読んだ感想。この後にどういう展開になって行くのかは知らん。あくまでも92ページまで読んで感じた事を書きなぐっただけ。

 ついでに。
 「自己矛盾に耐えうる事が出来るのが信心だ」とか云った先輩が居てて、少し思い出す。
 『よゐこ』は穢れがキライだし、自己矛盾が出来ない。『解りやすい方向』に行きやすい。
 ちゃうんちゃうかな。自己矛盾に開き直っても自己矛盾ではないけど、『解放』の道を歩みつつも、それとは全く違った『私』を見出す事が出来る、混同してしまって自己矛盾に陥ってしまっている『私』を発見しつつ、だから諦めてしまうのではなく、それは単に『よゐこ』なんだし、そうではなく、自己矛盾を抱えながらも『解放』に突き進んで行く。同時にその『自己矛盾』を見出す事が出来る事によって差別化する事なく『いっしょ』に成れるのでは?と。