エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

念仏寺の仏塔群~嵯峨野を歩く

2009年09月24日 | 旅行
あだし野の念仏寺は、人の魂が静かに寄り添っているのかもしれない。
ここでは、現世の人は過去という次元に絡め取られるのかもしれないのだ。



嵯峨野の化野(あだしの)にある念仏寺は、八千体にも上る石塔、石仏群が安置されている。
石仏群は、往古(おうこ)あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。



実に何とも言えないたたずまいである。
無縁仏となった往古の魂が、蹲(うずくま)っているようでもある。



苔むした石塔が時間を超えてぼくに訴えてくる。
時空はぼくの中で弾けるのである。
弾けると、ぼくのベクトルは広大無限に交差し続ける。



念仏寺を後にして山道を歩いた。
ぼくはあまりの辛さに空を見上げた。





有るか無きかの隙間に青空が覗いた。
遊弋するぼくの魂はやっと現世に戻れたのである。

ぼくは「南無帰依仏」と唱えた。
不思議体験である。






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                荒野人

コスモスの歌

2009年09月24日 | 旅行


清里・キープ牧場のパン屋さんの庭に咲くコスモスだ。
木の柵によく似合っている。
この季節ならではの風景である。




             コスモスの歌


        きみよコスモスを歌え
        コスモスの花を歌え

        コスモスはぼくの幼かった時代
        母とともに山野や庭で親しんだ
        花

        母の愛はコスモスが咲き乱れるように
        尽きることが無かった

        コスモスは
        咲き乱れ
        咲き乱れて母を迎えに来てしまった
        母は満開のコスモスとともに旅立った

        きみよコスモスの花を歌え
        そしてきみはぼくの母となって
        ぼくと旅立っていく

        コスモスの歌は
        秋という季節を乗り越えていく

        ぼくの母の尽きることのない愛情のように
        きみの豊かな母性のように





ぼくの母は、7年半の闘病の末「幽明境を異に」した。
その時、庭のコスモスが見事に咲き乱れていたものだった。

母は、40数年の人生を悔いなく過ごせたのだろうか。
ぼくはそうだったと確信している。

父の惜しまない愛情は、子ども心にも眩(まぶ)しかった。

「愛情は降る星のごとく」
父の書斎の書架にあった。




茅屋から見上げる空である。
晴天の夜には星屑で作った「天の川」が架かる。





星の夜空は、いまもなおぼくの内部に沈殿しつづけている。







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