祇王寺は、奥嵯峨の小倉山麓の竹と楓(かえで)に囲まれた小さな草庵である。
祇王寺のギの字は、本当は示す扁に氏と書くのだけれど、残念ながらその書体が見つからないのだ。
従って、この祇王寺で勘弁されたいのである。
これは祇王寺の手前にある観林寺の苔むした石積である。
これを右手に見て、坂道を上りつめた場所に祇王寺が佇んでいる。
観林寺の山門を過ぎた時点で俄(にわ)かに風が冷たくなる。
霊域に入ったことを知らされるのである。
現世のぼくたちは妄(みだ)りに結界(けっかい)を犯してはならないのだと知らされる。
ここを左に登っていくと山門に至る。瀟洒な作りで好感が持てるのである。
萱の塀が心地よいリズムを刻んでくる。
心が鄙(ひな)びてくるのである。
草庵・・・まさに庵と言うに値する萱葺き屋根の一棟のみの尼寺である。
草庵の玄関を入ると、吉野窓が目に入る。
美しい窓である。
平清盛の愛した白拍子、祇王と祇女の悲しい物語をこの草庵は語っているのである。
仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、その母刀自、仏御前が安置されている。
祇王、祇女の像は鎌倉末期の作である。
作者不詳だ。
この庵の庭は、苔が一面に敷き詰められている。
この緑の絨毯に紅葉した紅葉が舞い落ちる様は妙である。
初秋がこんなに情緒豊かなのだから、季節を鮮明に変えるに違いないのである。
紅葉の時期に再訪したいものである。
にほんブログ村
荒野人
祇王寺のギの字は、本当は示す扁に氏と書くのだけれど、残念ながらその書体が見つからないのだ。
従って、この祇王寺で勘弁されたいのである。
これは祇王寺の手前にある観林寺の苔むした石積である。
これを右手に見て、坂道を上りつめた場所に祇王寺が佇んでいる。
観林寺の山門を過ぎた時点で俄(にわ)かに風が冷たくなる。
霊域に入ったことを知らされるのである。
現世のぼくたちは妄(みだ)りに結界(けっかい)を犯してはならないのだと知らされる。
ここを左に登っていくと山門に至る。瀟洒な作りで好感が持てるのである。
萱の塀が心地よいリズムを刻んでくる。
心が鄙(ひな)びてくるのである。
草庵・・・まさに庵と言うに値する萱葺き屋根の一棟のみの尼寺である。
草庵の玄関を入ると、吉野窓が目に入る。
美しい窓である。
平清盛の愛した白拍子、祇王と祇女の悲しい物語をこの草庵は語っているのである。
仏壇には本尊大日如来、清盛公、祇王、祇女、その母刀自、仏御前が安置されている。
祇王、祇女の像は鎌倉末期の作である。
作者不詳だ。
この庵の庭は、苔が一面に敷き詰められている。
この緑の絨毯に紅葉した紅葉が舞い落ちる様は妙である。
初秋がこんなに情緒豊かなのだから、季節を鮮明に変えるに違いないのである。
紅葉の時期に再訪したいものである。
にほんブログ村
荒野人