『スター☆トゥインクルプリキュア』は、こないだまで当ブログでやってた「メロドラマ」の項目に当てはまるところが多い。とりわけ、メインキャラ5名のうちの一人が、父親との葛藤(「確執」というほどではない)を抱えてるのが、ぼくには興味ぶかいのだ。
イギリスの批評家ピーター・ブルックスさんによるメロドラマの定式をおさらいしよう。
「メロドラマの登場人物のパターン」
◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)
「メロドラマのストーリー上の骨格」
(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別される。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)
これらの項目のうちのいくつかが古めかしく見えるのは、「メロドラマ」が確立されたのが、18世紀末、大革命後のフランスにおいてだからである(あくまでブルックス氏の見解だが)。ヒロインを補佐する者たちが「侍女、子供、許嫁、農夫など」ってのも大概だけど、「ヒロイン」に続いて「その父親」が主要キャラとして2番目にくるのも、いまどきの感覚とはそぐわない。
これは当時の社会がまだまだ家父長専制的で、「父親」が「ゆるぎない権威」「もっとも身近な、世間の代表」だったことを意味する。これが今日のニッポンならば、「戦後民主主義の成れの果て」といった塩梅で、フィクションの中でも、また現実においても、父親にそこまでの威厳はあるまい。
しかしいっぽう、女児向けファンタジーであり、かつバトルアニメという特異な性質をもつプリキュアシリーズにとっては、意外なくらい合致する部分も多い。メロドラマの水脈が現代サブカル(エンタメ)に受け継がれていることの証左でもあろう。
ことに、
「善と悪とを明快な「二元論」に集約する。」
「日常生活のなかで起きるドラマを(ファンタジーとして再構成することで)美学化する。」
「物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。」
といったあたりは「そのまんまじゃん」という感じである。もちろん「主人公は女性」なわけだし、彼女(たち)が「喜怒哀楽の激情に耽溺する」ってのも、これはまあ、恋愛感情のことを言ってるんだろうから厳密にいえば違うけど、感情の振幅がドラマチックに描かれるって点では、当たらずといえども遠からずだ。
けれど、これまでのシリーズにおいて、プリキュアのメンバーが実の父親と深刻な葛藤を演じたことはじつはなかったのである。いや、皆無だったわけではない。しかしそれはいささか特殊な事例なので、すこし説明を要する。
2011年の『スイートプリキュア♪』では(この「スイート」は「組曲」と「甘味」のダブルミーニングになっている)、王国の姫・キュアミューズこと調辺(しらべ)アコは、悪の黒幕によって洗脳された父王・メフィストと対決する。もちろん最後は洗脳が解けてめでたしめでたしとなったが。
しかしその2年後、2013年の『ドキドキ!プリキュア』ではその構造が複雑になって、トランプ王国の王(名前は不明)は悪の黒幕によって完全に飲み込まれてしまい、ちょっとやそっとで分離できなくなっており、しかも自らの手で国そのものを滅亡の淵にまで追い込む。王女のマリー・アンジュは甲冑に身を固め、槍を取って闘うも、力及ばず一敗地にまみれ、元の姿を保てなくなって、「父に抗って王国の平和を取り戻そうとする円亜久里(まどか あぐり)」と、「他のすべてを敵に回しても、あくまで父への愛を貫くレジーナ」の2人に分裂してしまう。
円亜久里の声は釘宮理恵さん、レジーナの声は渡辺久美子さんが演じた。マリー・アンジュは今井由香さんで、つまりこの3人は完全に別の人格として設定されていたのである。アンジュは18歳くらい、亜久里とレジーナはそれぞれ10歳くらいの外観であった。
マリー・アンジュ
円亜久里(まどか あぐり。en aguriと書けばreginaのアナグラム)。追加戦士として夏ごろに登場。当初その正体は謎に包まれていた(本人自身も記憶を失くしていて知らなかった)。変身して「キュアエース」になるとマリー・アンジュに近い成長した姿に
レジーナ。ラテン語で「女王」の意味。この人はプリキュアにはならない。主人公・相田マナへの友情に激しく心を揺さぶられつつも、最後の最後、ぎりぎりの瞬間まで父への愛を貫いて敵対する
もちろん最後はハッピーエンドとなり、亜久里もレジーナもふつうの小学生として生活を送るが、マリー・アンジュはついに復活せず、その存在は消滅してしまった。メインキャラのひとりがそんな結末を迎えるのは、シリーズ中でも珍しいと思う。
表立っては描かれなかったけど、父王が悪の化身によって飲み込まれた時期は、愛娘マリー・アンジュに婚約者ができた時期とほぼ同じで、ふたつの出来事には相関性があるかのようにぼくには見えた。しかも母親は一切出てこないし、言及すらされない。どうしてもこれはエレクトラ・コンプレックスを想起せざるをえず、「人格が2つに引き裂かれる」という構想と相まって、かなりインパクトが強かった。だからぼくの中では『ドキドキ!プリキュア』はいちばんの異色作である。
このように、過去シリーズでもプリキュアのメンバーが実の父親と葛藤を演じることはあった。しかしご覧のとおりそれらは「あちらの世界」でのことだったのだ。異世界出身のメンバーの身に起こる事だと相場が決まっていた。「人間界」側のメンバーたる娘さんたちは、そりゃあみんながみんな父親とずっと良好な関係を築いてたわけではないけれど(ちょっとした齟齬を感じている子はいた)、そこまで深刻な事態には至らなかった。
いや、「父親」という具体的な対象ではなくて、「家のしがらみ」に絡めとられて苦慮しているプリキュアさんなら居た。「優等生のお嬢様」枠に属するキャラのうちの何人かはそれだ。前作の愛崎えみる、2017年『キラキラ☆プリキュアアラモード』の立神あおい、2015年『Go!プリンセスプリキュア』の海藤みなみといった諸嬢が該当するだろう。
とはいえ、これらの皆さんにしても、「父親」と正面切って対峙するシーンはなかったのである(どのお父さんも意外とリベラルだった。もっとも抑圧を覚えていたのはたぶん愛崎えみるだが、彼女とて、抑圧の相手は「父」ではなくて「祖父」だったのだ)。
俗に「桃キュア」と称される主人公の父親はわりとふつうのサラリーマンないし自営業者が多いので、先に述べたとおり、家父長専制的な威厳を発することはない。しかし、「優等生のお嬢様」枠に属するメンバーのばあい、かなり現実離れした名家かつ資産家という設定だから、ブルックスのいう「メロドラマ」的な古式ゆかしき父親、すなわち社会(的規範)の代表としての父親像が成立してしまう。
ファンタジーたるプリキュアシリーズにとって、これは好ましからざることである。ファンタジーってのは社会を捨象するからこそ成り立つものなんだから(故にいずれも大なり小なり「セカイ系」っぽくなる)。
しかるに今作、『スタートゥインクル☆プリキュア』では、「優等生のお嬢様」枠、高貴な紫をイメージカラーにもつ香久矢まどかの父は、「内閣府宇宙開発特別捜査局局長」の職にある政府高官、すなわち宇宙からの来訪者をキビしく取り締まる立場の人なのである。定員5名のプリキュア勢のうちじつに2人までを異星人が占める今作にあって、ロコツなまでに利害の対立する相手だ。ぼくは最初のうち、さほどまじめに見てなかったけど、この件に関しては「面白いな」とは思っていた。
香久矢まどか(CV・小松未可子)。41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」にて、尊敬してやまない父からの精神的な自立を果たす。まあ、ぼくみたいな庶民の目には「遅すぎた反抗期」にも見えるけれども
父・冬貴と母・満佳(みちか)。娘が一礼して自室へと立ち去ったあと、「私が悪かったのか。まどかが誤った判断を……」と戸惑う父を、「誤りではないわ。これは成長っていうのよ」と母は優しく諭す。「満佳」は満月に通じるのだろう。「おっとりしているようで、じつはよくわかっている母親」という類型に属するキャラである
まどかと父との関係性が大きく変容する41話「月よ輝け☆まどかの一歩!」は、期待に違わず、とても面白い話数となった。しかしその内容は、ぼくが事前に思い描いてたのとは、いくぶん異なるものだった。