ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

聖ゲオルギオスの竜退治

2019-11-13 | 物語(ロマン)の愉楽
 「メロドラマ」については、akiさんからのコメントのおかげで自分でも思っていなかったほど深いところまで行けた。まだまだ道は遠いけど、今はもう「メロドラマの話はこれ以上絞っても出ないよ。」といった塩梅なので、ほかのネタに移りましょう。
 「物語」といえば「竜(ドラゴン)退治」。これは前々からアタマのどこかに引っかかってたのに、なぜかブログの記事に仕立てたことがなかった。あまりにも自明な事柄はかえって前景化しにくいという、「灯台下暗し」的心理のなせるわざだろうか。あるいは、下らぬようだがわりと重要な理由として、ぼくがあの手の怪物っぽいのが苦手だってこともある。「シン・ゴジラ」の第5形態くらいヒト型に近けりゃまだいいんだけどね。
 ドラゴンのイメージにも文化圏によっていくつか種類がある。ざっくり分ければ東洋ではいわゆる「龍」の姿で(すなわちドラゴンボールの神龍タイプ)、西洋では大きなトカゲに蝙蝠ふうの翼の生えたバハムート型としてヴィジュアライズされることが多い(これをさらに図案化して紋章にするとワイバーン型となり、ショーン・コネリーがドラゴンのCVを担当したハリウッド映画『ドラゴンハート』などはこれだった)。この2タイプからさらにまた細分化される。
 聖ゲオルギオスはキリスト教の聖人のひとりで、古代ギリシア語とラテン語ではこの読みになるが、イタリア語ではジョルジョ、スペイン語ではホルヘ、フランス語ではジョルジュ、ドイツ語ではゲオルク、英語ではジョージ。ありふれた名前だ。というか、キリスト教圏では聖人にあやかった名をつけることが多いので、結果としてそうなるわけだが。絵画では、もっぱら甲冑をつけた騎士の姿で描かれる。
 このゲオルギオスさんがドラゴンを倒す。wiki先輩のお話によると、詳細はこんな感じである。


『伝説の成立は11世紀から12世紀頃といわれる。


カッパドキアのセルビオス(Selbios)王の首府ラシア(Lasia)付近に、毒気は振りまく、人には咬み付く、という巨大な悪竜がいた。人々は、毎日2匹ずつの羊を生け贄にすることで、何とかその災厄から免れていたが、それが通用するのはそんなに長い時間のことではなかった。羊を全て捧げてしまった人々は、とうとう人間を生け贄として差し出すこととなった。そのくじに当たったのは、偶然にも王の娘であった。王は城中の宝石を差し出すことで逃れようとしたが、そんなものでごまかせるはずもない。ただ、8日間だけ猶予を得た。




そこにゲオルギオスが通りかかった。彼は毒竜の話を聞き「よし、私が助けてあげましょう。」と出掛けていった。




ゲオルギオスは生贄の行列の先にたち、竜に対峙した。竜は毒の息を吐いてゲオルギオスを殺そうとしたが開いた口に槍を刺されて倒れた。ゲオルギオスは姫の帯を借り、それを竜の首に付けて犬か馬のように村まで連れてきてしまった。大騒ぎになったところで、ゲオルギオスは言い放った。




「キリスト教徒になると約束しなさい。そうしたら、この竜を殺してあげましょう」




こうして、異教の村はキリスト教の教えを受け入れた。』




 なにしろ聖人であらせられるので、たんに竜を退治してめでたしめでたしとか、王女様をお嫁にもらって幸せに暮らしましたとか、そういう話ではなくて、布教をなさるわけである。ただの人助けではなく、異教徒を改宗させるために竜退治を請け負ったわけだ。そのせいもあり、このエピソードにしても、本来ならばいちばん面白くなるはずのバトルシーンが拍子抜けするほどあっさりしている。
 そしてこの人、この後どのような遍歴をされたのかはわからぬが、最後にはけっこう酷いことになる。ひきつづきwiki先輩のお話。




『殉教
ゲオルギオスはキリスト教を嫌う異教徒の王に捕らえられ、鞭打ち・刃のついた車輪での磔、煮えたぎった鉛での釜茹でなどの拷問を受けるが、神の加護によって無事であった。


王は異教の神殿でゲオルギオスに棄教を迫るが、ゲオルギオスの祈りによって神殿は倒壊する。しかも、王妃までもがゲオルギオスの信念に打たれてキリスト教に改宗しようとしたため、自尊心を傷つけられた王は怒りに駆られた。


王妃は夫たる王の命令によりゲオルギオスの目の前で見せしめとして惨殺されるが、死の間際「私は洗礼を受けておりません」と訴えた。ゲオルギオスが王妃の信仰の厚さを祝福し「妹よ、貴方が今流すその血が洗礼となるのです」と答えると、天国を約束された王妃は満足げに息を引き取った。


ゲオルギオス本人も斬首され、殉教者となった。』




 なんとも気の毒な羽目になったものである。そんなに神のご加護があらたかならば、どこかで助けが入らぬものかと思ったりもするが、もちろんこれはキリストの受難をなぞってるわけだろう。だから聖人伝ってのはみなこんな按配で、聖人も聖女も迫害を受けて酷い目にあって殉教する。そのような人たちの列伝を集めたもの(のうちでもっとも有名なの)が『黄金伝説』という書物だ。平凡社ライブラリーから4分冊で出ているが、どの巻もたいそう分厚い。
 竜退治といえばまずこのゲオルギウスの名が浮かぶが、伝説によれば、ほかにもやった人はいるらしい。引き続きwiki先輩のお話。




『聖ゲオルギウスの竜退治の話は、ヤコブス・デ・ウォラギネ撰述の聖人伝説集『黄金伝説』(13世紀)を通じてヨーロッパに広まった。『黄金伝説』にはアンティオキアのマルガリタ(聖マルゲリータ)、聖マルタ、ローマ教皇シルウェステル1世の竜退治伝説も収められている。


 イギリスでは『ハンプトンのベヴィス卿(英語版)』(14世紀)、聖ジョージをはじめとする七人の勇者が登場する『七守護聖人』(リチャード・ジョンソン(英語版)作、1596年)といった文学作品も、竜退治物語の大衆的普及に寄与した。イギリスの民衆劇ママーズ・プレイ(英語版)でも聖ジョージが登場するが、ドラゴンは台詞のなかで言及されるだけで、舞台に登場することは稀であった。』




 ふむふむ。


『15~16世紀にはイギリス各地で火を吐くドラゴンの見せ物があったことが記録に残っており、17世紀には花火で火を吹きながら空を飛ぶ仕掛の張子のドラゴンも考案された。ドラゴンは町の祝祭のアトラクションにも使われた。記録上は15世紀初頭にまで遡る「ノリッジのスナップ」 (Snap of Norwich) は、中に人が入って動かす模造ドラゴンで、人を追いかけたりして祭を盛り上げた。ノリッジ近辺ではこれを模倣したものが20世紀初頭まで使われていた。フランスのタラスコンでは、聖霊降臨祭の月曜日と聖マルタの日にタラスクという木製のドラゴンのパレードが行われた(この行事は一時廃れたが、現在は復活している)。』




 ははははは。中世末から近世には、お祭りの出し物や、見世物の興行にドラゴンの張り子が使われたのかあ。まあ記録に残ってないだけでもっと早くから使われていたのかもしれぬけれども。たしかにこれはアトラクションと呼ぶべきですね。やはり人間ってのはなぜか「怪物」が大好きなんだよな。この心性はおそらくそれこそシンゴジラとか、ポケモンとか、ドラクエとか、恐竜博といったものにまで繋がってくるんだろう。




 さらに遡ればもちろん、ギリシア神話のペルセウスによる海竜退治に行き着く。ペルセウスはほかにもたくさん怪物を退治してるのだが、このエピソードにおいてはアンドロメダという美女を救った点が大きくて、「英雄が竜を倒して美女を救う」パターンの原型として、アンドロメダ型、あるいはペルセウス・アンドロメダ型神話と呼ばれる。この分類法に関して、wiki先輩は[要出典]などと厳めしいことを仰るが、かりに学術的に認知されておらずとも、ここまで普遍化した類型に何らかの呼称をつけておくのは自然だろう。
 むろん日本であればスサノオによるヤマタノオロチ退治となる。アンドロメダ姫に当たるのはクシナダ姫だ。ただしヤマタノオロチはドラゴンではなく形態からいえばヒュドラ……わかりやすくいえばキングギドラ型だが。
 日本神話でペルセウス型の竜退治が語られているのは興味ぶかい。というのも、中国においては古来より竜は聖獣であり、退治するなどもってのほかだからだ。ヤマタノオロチの原型がどこで生まれてどこをどう伝わって日本に来たのか、まじめに調べたら面白いかもしれない。だれかやった人はいるんだろうか。
 もっというなら、じつは聖人伝説より前に聖書そのものにも竜や怪物は出てくるし(それも結構いっぱい出てくる)、さらにそれ以前、シュメール神話では『君の名は。』でおなじみティアマトという巨竜が語られている。たぶん竜や怪物のイメージは人類の発生と共に古いのであろう。
 いやしかしドラゴン談義はこれくらいにしましょう。今回話したかったのはむしろ聖ゲオルギウスのほうだった。




 スサノオやペルセウスと違うのは、聖ゲオルギウスさんが偉業を成し遂げたのち、迫害を受けて殉教したことだ。つまりこの方は英雄というより受難者として描かれているわけで、これは先述のとおり主キリストの事績を踏襲しているわけだが、結果として、聖ゲオルギウスまたの名を聖ジョージさんは現代を生きるぼくたちにまでストレートに通じるヒロイズムを帯びる。陰を背負ってるわけである。
 いま『ジョーカー』が話題をまいているけれど、そもそも本編の主人公たるバットマン本人がそうとうに屈折したヒーローであり、資産家ではあっても両親を子供の頃に失ってるわけだし、街の治安を守るべく満身創痍となって粉骨しても、いぜんとして悪は蔓延り続け、自身の奮闘も報われず、愛を確かめあう伴侶とてなく、どうにもこうにも痛々しい。そこに今日のアメリカってもののナルシスティックな自己投影を見て取ることもできるだろう。そのようなイメージなり心性なりの原型として、聖ゲオルギウスの存在は物語論的にきわめて大きい。




この記事の続き。
「聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの」
https://blog.goo.ne.jp/eminus/e/7e258ab360339d4166fcb1f7cb411e9e





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