ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

竜退治とロマンス

2019-11-16 | 物語(ロマン)の愉楽
 さて。話がすこし逸れたけれども、「竜退治」のパターンがエンタメにおけるストーリーづくりの王道……というより、基本中の基本であることは申すまでもないだろう。「ヒーロー(主人公)」がいて「悪役」がいて、そのワルに苦しめられている「姫」がいる。悪役は必ず主人公よりかなり強い。むろん、さもなくば話がすぐに終わってしまうからである。ヒーローが艱難辛苦を乗り越えて、努力の果てに敵を打ち倒し、「姫」を解放する。そのプロセスこそが「お話」の内容そのものなのだから。
 それで、まあ、解放された姫様が「おお。大儀であったの。あとで褒美をつかわすぞ」と言ってさっさと城に帰っちゃったらあんまりなので、姫様はそういうキャラではなくて、たいてい主人公と恋に落ちる。そこで「竜退治」に「ロマンス」が重なる(もちろん、特に最近のものでは、共に力を合わせて戦う過程で信頼や愛情が育まれてることが多い)。この「ロマンス」は、こないだまでブログでやった「メロドラマ」とはまた別物だけど、ほぼ似たようなもんである。
 「竜退治」+「ロマンス」。ハリウッド映画から日本の深夜アニメまで、エンタメ(サブカル)はことごとくそのバリエーションとして紡がれる。
 宮崎駿作品だと、いうまでもなく『天空の城 ラピュタ』。その前哨として『未来少年コナン』というテレビシリーズもあったし、「ルパン三世」のフォーマットに落とし込んだら『カリオストロの城』になる。
 きわめて興味ぶかいのは、これも日本のエンタメ消費者にとってはお馴染みながら、今や「ヒーロー(主人公)」が女性になり、男子(男性)のほうが「姫」の役を割り当てられるケースが多いことだ。ジェンダー・ロールが入れ替わっている。いちばんいい例が『風の谷のナウシカ』。きのう金曜ロードショウでやってた(2回目)『アナと雪の女王』もとうぜん入る。プリキュアしかり、まど☆マギしかり。こんな恣意的にピックアップするんじゃなしに、きちんと綿密に辿っていけば、これはこれで有益なレポートができる。
 もうひとつ注目すべきは、退治される「竜」の末裔としての「悪役」である。もとより昔から「ピカレスク・ロマン」といって、並外れた魅力をもった「ワル」を描く作品の系譜はあったけれども、大体においてプレモダン(近代以前)の作品においては勧善懲悪、すなわちワルはどうにもこうにも御しがたい根っから性根の腐りきった更生不能のクズであり、善玉のほうは生まれつき品行方正で眉目秀麗な好漢として描かれるのが常だった。
 滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が典型的だが、これは儒教道徳の影響に加え、馬琴が癇性なまでに生真面目な人だったのが大きい。
 ハリウッドでは、おもに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた70年代半ば頃(つまりベトナム戦争以降)の作品あたりから、「悪」の形象が複雑になり、深みを帯びて描かれるのが当たり前になってきた。
 その流れのおそらく頂点に位置するものが2008年の『ダークナイト』におけるヒース・レジャーのジョーカーであり(彼は本作の公開を待たずに亡くなった。役作りにのめり込みすぎたためと言われている)、今年度の『ジョーカー』におけるホアキン・フェニックスのジョーカーなのだろう。
 附言するならば、今年の『スタートゥインクル☆プリキュア』がここにきて深みを増し、格段に面白くなってきたのは、「悪役」たちがそれぞれに過去を背負って、陰影ゆたかに描かれているからだ。ここが昨年の『HUGっと!プリキュア』との最大の違いだ。「悪」についての掘り下げをおろそかにして人の心を打つ作品はできない。






聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの

2019-11-16 | 物語(ロマン)の愉楽
 前回の末尾でジョーカーおよびバットマンの話を持ち出したが、英雄にして殉教者たる聖ゲオルギウスから、いきなりこのお二人に跳んじまうのもまた乱暴な展開である。ゼミのレポートであれば指導教授から苦笑まじりに窘められるところであろう。ただし論旨の運びは確かに粗いがけっして牽強付会ではなくて、繋がってるのは事実なのである。それもただ類比的に「同一の構造が認められる」というレベルじゃなく、ほんとうに系譜として繋がっているのだ。
 そこをヨーロッパ文化史の文脈を辿ってていねいに跡付けてやればそれこそ浩瀚な論文ができる。きっと面白いものになるだろう。それは現代アメリカの病理の一端を浮き彫りにすることにもなるので、たんに面白いだけでなく社会学的にも意義がある。しかしぼくにはそんな余裕はない。
 だからここではメモの代わりに最低限の手がかりだけを書き付けておこう。いきなり近代から歴史を始めて、固有の確たる神話をもたないUSAは自身のために「キッチュな神話」をつくった。むろん特定の個人なり企業なり組織なりがつくったというのではなく、大衆の欲望と情念を吸い上げながら巨大な説話論的/イメージ論的体系が自ずと形成されていったわけだ。
 それこそがハリウッド映画にほかならない。
 ハリウッド映画の影響力は、州知事どころか大統領までをも生んだことからもわかる。
 たぶんこういう話題については町山智浩さんなんかが詳しいんだろうけど、ぼくが目にしたかぎりでは、あの人の関心は60年代以降に集中していて、創成期~大戦直後あたりまでのハリウッド映画についてのまとまった論考はないようだ。ほかに目ぼしい資料も手元にない。
 資料はないが、ハリウッド映画の歴史において、「聖ゲオルギウスとバットマンとを繋ぐもの」といえば、そりゃ常識で考えて「西部劇」だろう。いまはテレビで目にするのも稀だが、ぼくが子供の頃にはしょっちゅうやっていた。当時は「日曜洋画劇場」「月曜ロードショー」「水曜ロードショー」「金曜ロードショー」などと、まさに連日テレビで洋画を放映してたのだ。ネット配信やDVDはおろか、ビデオすら普及してなかった頃には、テレビの洋画枠は貴重で、西部劇もそんな洋画枠のコンテンツのひとつだった。
 ぼくは西部劇に興味がない。ゆえに巨匠ジョン・フォードの作品もほとんど観てない。蓮實重彦いこう、ジョン・フォードを知らずして映画を語ることは許されなくなった。だからそもそも西部劇を……というか、ハリウッド映画、いや現代映画を不用意に語ってはいかんのだけども、そんな事を気にしてちゃブログなぞやってられんのである。だから西部劇についてもどんどん語る。
 どんどん、といってもここでいうべきことはあまりない。西部劇には必ず保安官が登場する。銃を携えた荒くれ共に伍して、街の正義と治安を守るヒーローだ。代表する役者はジョン・ウェイン。
 この「保安官」こそが、聖ゲオルギオスとバットマンとを繋ぐ直近のキャラ類型に違いない……というわけで、本日はばたばたしていて時間がないのでここまで。





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