ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

メロドラマ。その③ akiさんへのご返事

2019-11-07 | 物語(ロマン)の愉楽
「メロドラマ。」へのakiさんからのコメント


 eminusさんこんばんは。記事はちょくちょく拝見していましたが、それでいろいろと浮かんでくる心象を言葉に置き換えることにもたついて、反応の方は失礼しております。中世談義とか、絡めれば面白そうでしたが。


 今回はまどマギですね。
 私は放送当時、衝撃的な3話が話題になってから後追いを始めたクチですが、最初は劇団イヌカレーの異界描写に魅了され、次に容赦のないシナリオの妙に引き込まれましたが、「手放しでのめりこむ」というほどではありませんでした。まあただこの作品は、考察とか二次創作とかの熱心なファンによる活動が盛り上げ、育てた部分が強いと思いますので、それらファンによる活動は楽しんで見ている感じですね。
 劇場版はAbemaTVによるネット放送(去年だったっけ?)が初めてでしたが、ほむらの「愛よ!」には笑ってしまいました。新編のシナリオがいつできたのか存じませんが、虚淵玄、結構二次創作の内容を取り入れてるんじゃね?と思ったのでw
 ちなみにテレビ版、劇場版を通じて、この作品で最も好きな言葉は、魔女化ほむら「ホムリリィ」との戦いに際し、杏子とさやかが互いに思いを吐露し合った後、人知れず一粒の涙をこぼし、杏子が明るく吐き捨てる「バッカやろう!」です。これほど優しく、切なく、美しい「ばかやろう」を、私は他に知りません。この二人の物語は「まどマギ」という作品の本筋からは外れるのですが、それをきっちり表現して見せた虚淵玄、あんたわかってるね。
 そんなわけで私はあんさや推しw ほむまども嫌いではありませんが。




 ・・・という内容を前回の記事に書けたら良かったw
 で、今回の「メロドラマの骨格」についてですが。
 これって「シンデレラ」や「白雪姫」などのグリム童話の定型に見事に当てはまるんですね。というか、おそらくピーター・ブルックス氏はその辺の物語を念頭に置いて論を建てたのでしょう。
 日本においてはかつて全盛を誇った「昼メロ」とか、もっと前の少女漫画はこの類型に当てはまるかもしれない。ただ日本の場合、(4)善悪二元論で登場人物を両極端に振り分けるという項目は、かつての時代劇等ではそうでしたが、少なくとも現代作劇では当てはまらないと思います。善悪二元論って、そもそもキリスト教的価値観ですしね。
『まどマギ』でも悪魔ほむらは必ずしも悪に振り切った存在というわけではない。まあ本人はそのつもりかもしれませんがw まだこのお話は結末を迎えていませんが、ほむら(=悪)が完全に負ける(=破滅する)という結末にしてしまえば、観客の多くは怒るでしょう。


 まあそんなわけで、『まどマギ』を「メロドラマ」と言われると、私としては・・・・?と首を傾げてしまいます。まだ前々回おっしゃっていた「神話」の方がそれっぽいですね。ただし、「神話」とはそもそも「自分たちはどこから来たのか」という根源への問いに対する「民族的な答え」としての役割が大きいので、その点では『まどマギ』は世界を改変したとはいえお話の筋は中心にいる5人の枠から出てはおらず、「その後の世界」につながっていかないストーリーですので、やはり「神話」の類型からもはみ出すお話であろうと思います。
 あらゆる物語の類型に当てはまらない、全く新しい物語を構築したのであれば歴史的な偉業と言うべきでしょうが、さてどうでしょうかね?







「メロドラマ。その②」へのakiさんからのコメント




投稿後に気付きましたw
 お。新たな記事が上がってたのですね。(拝見)


 ・・・確かにプリキュアは二元論でしたw
 なるほど、項目すべては当てはまらなくても、いくつかが該当すれば物語として人の感動を呼びやすい、ということですね。おしんか・・・なるほど。


 私自身は、『まどマギ』の魅力とは、「閉じられた世界が作り出す、登場人物同士の濃密な関係性」にあると思います。これがたとえば、他の魔法少女たちが大量に登場して、一緒に強大な魔女ワルプルギスに立ち向かう!とかいう話だと、別の面白さは生まれるかもしれませんが、今ある物語の魅力は激減すると思うんですね。
 この「敢えて登場人物を絞って、濃密な人間関係を描き出し、それを軸に物語を進める」という話の作り方は、物語としては結構重要かもしれません。というか、ほとんどの物語ではその点に最も腐心している。『ロミオとジュリエット』しかり。多くの登場人物が出てくる歴史小説などでも、「ライバル関係」等に着目することで、究極的には「二人の人間関係」に集約するような話が、やはり人気が出る。「武田信玄と上杉謙信」とか。「徳川家康と石田三成」とか。「曹操と劉備」とか。


『まどマギ』の場合、「魔法少女と世界改変」というモチーフを通じて、「ほむらとまどか」という二人の人間関係にお話を集約することに成功した。ふと目を転じれば、「頑張っているが故に孤立しやすく壊れやすいマミ」「頑張りすぎてつぶれてしまったさやかとそれをほっとけないおせっかい焼きなツンデレ杏子」という魅力的な配役もされていて、様々な面で空想を巡らせることもできる。その塩梅が絶妙であったために人気が出た、ということだと思います。


 こういう「配役と物語背景の相乗効果で生み出す人間関係の妙」を論じた物語論ってあるんでしょうか? あったとしても、定型をつくってしまうとたちまちマンネリ化してしまうのが創作の難しさですから、やはりそこは試行錯誤しかないんでしょうねえ。




☆☆☆




 ぼくからのご返事。




 まど☆マギの劇場版ですが、あの「バッカやろう!」は、


杏子「ちっ、わけ分かんねーことに巻き込みやがって」
さやか「よっと……サンキュ!」
杏子「胸クソ悪くなる夢を見たんだ、あんたが死んじまう夢を……。でも本当はそっちが現実で、今こうして二人で戦っているのが夢だって……そういうことなのか、さやか……」
さやか「(……間……)夢っていうほど、悲しいものじゃないよ、これ。……なんの未練もないつもりでいたけれど、それでも結局、こんな役目を引き受けて戻ってきちゃったなんて、やっぱりあたし、心残りだったんだろうね。あんたを……置き去りにしちゃったことが」
なぎさ(外野から)「なぎさは、もういちどチーズが食べたかっただけなのです」
さやか「(ガクッ)……って、おいこら! 空気読めっての(使い魔たちを迎え撃つためにジャンプ)」
(涙が一滴、杏子の槍に落ちる)
杏子「……ふっ。…………バッカやろう!」
激しい戦闘。杏子とさやか、互いに背中を預けながら、使い魔たちと戦う。


 という文脈で出るんですね。もちろんBGMは梶浦由記さんの「misterioso」。だからファンの間ではあの一連のバトルシーンを「ミステリオーソ戦」と称したりもするようですが。







 あの件りをも含め、「結構二次創作の内容を取り入れてる」ってのはまったく同感で、というか、あまりにも救いのなかった本編に対し、ファンの願望を結晶したような膨大な量の二次創作を総括して創られたのが『叛逆の物語』(の前半部から中盤まで)なのだ……とさえ言える気がします。だからこそラストの、ほむらによる「叛逆」がショッキングでもあったわけですが。
 『叛逆の物語』については、よそでやってるブログにも書いて、それは物語論というより、「愛」について考えてるうちに「まど☆マギ」の話になっちゃった体なんだけど、そこで書いたことの中から、一部を抜き出してみます。いきなり、ややっこしい話になっちゃうんですけども。


「ブルックスによれば、メロドラマの出現は「近代」について文化的に考察するうえでとても大切だ。
 メロドラマがなぜ、大衆文化として(フランス革命以後の)18世紀後半に生まれ、かくも人気を博したか。
(たぶんそれは、もっぱら扇情的で、刺激が強かったせいだと私は思うんですけど、ブルックスさんはここで、もっと高い(もしくは深い)見地から考察を進めていきます。)
 この時代に起きた「キリスト教的価値観の解体」は、これに依存していた「悲/喜劇の失効」をもたらした。それは近代的な感性が「古代ギリシア的な悲劇的ヴィジョンの喪失」を覚えはじめたことに由来する。
 この文脈においては、ラシーヌは最後の悲劇作者であり、ミルトンは最後の叙情詩人であり、そしてルソーは、『告白』の冒頭部分によって近代文学の開始を告げた、ということができる。ちなみに、メロドラマという名称を初めに付けたのはルソーで、その際はたんに「音楽を伴うドラマ」であったが、やがて「大衆ドラマ」という意味合いにまで拡張されていく。
(いや……このあたりはなかなか難しいですね。「悲劇」なんて厄介な用語(概念)が出てきました。これはじっくりやったら本一冊分まるまる費やしても足りないくらいの話なんで、とりあえず置いといて、先に進みましょう。)
 じつはメロドラマとは、かつてキリスト教的道徳律として中心原理となっていた「聖なるもの(ヌミナス)」を、文学作品に描かれる「日常の人間関係の中」で「本質的道徳」(倫理)として取り戻そうとする文学形式なのである。
 いうならば、メロドラマが求める「聖杯」とは……(この聖杯ってのは、アーサー王伝説なんかでいうアレですね。キリスト教世界において「何よりも重要な(しかも隠された)宝」くらいの意味です)……道徳的神秘なのだ。
 そしてその「道徳的神秘」の探究者として頂点に立つのは、フランスにおけるバルザックと、アメリカにおけるヘンリー・ジェイムズであり、この二人こそがメロドラマの精髄であり、かつ大成者なんだぞ、とブルックスさんは言います。」


 ……ってことになります。これはブルックス先生一流の定義で、辞書的な意味での「メロドラマ」よりも構えがずっと大きくなってますが、意外とこれ、商業主義を突き詰めたあげくに、リアリズムを脱して臆面もなくファンタジーに溺れる「現代ニホンのサブカル」に当てはまっちゃうんじゃないか……と感じて、ここんとこ「メロドラマ」に拘ってるんだけど、うまくまとまるかどうかは自信ないですね(笑)。あれこれぐちゃぐちゃ書きながら、じわじわと形を成していく気がします。だからこうやって的確なコメントを頂けるのは本当にありがたい。
 ともあれ、ブルックスさんの論は、あくまでもキリスト教の土壌あってのことなんで、そもそも日本に応用できるかどうか微妙ではありますね。まどかが「神」、ほむらが「悪魔」などといっても、それはもちろんフェイクにすぎない。それは勿論そうなんだけど、これだけの人気を集めて、海外にも多くのファンを得てるんだから、たんに「フェイク」と言って片付けるわけにもいかない。ただ、「道徳的神秘の探究」ってレベルにまで達してるといえるかとなると、さすがにね……。この話は後でまた蒸し返すことになりそうですが。
 さて。コメントが刺激的なんで、どんどん長くなっちゃうんですけど、あと2つだけ。


「あらゆる物語の類型に当てはまらない、全く新しい物語を構築したのであれば歴史的な偉業と言うべきでしょうが、さてどうでしょうかね?」
 ぼくの考えだけど、物語の類型は、ギリシア神話をはじめとする「神話」にすべて出尽くしてるんで、さすがの現代サブカルにも、「全く新しい物語」は生み出せないと思います。ただブルックスさんの説にもあるとおり、物語ってのは「時代」と「社会」の変遷に応じて、切実なテーマを取り込みながら生成を重ねていくものなんで、「その時代/その社会にしか生み出せない物語」というのは絶対にあるでしょうね。
 さらに、これに関連して、

「『まどマギ』の場合、「魔法少女と世界改変」というモチーフを通じて、「ほむらとまどか」という二人の人間関係にお話を集約することに成功した。ふと目を転じれば、「頑張っているが故に孤立しやすく壊れやすいマミ」「頑張りすぎてつぶれてしまったさやかとそれをほっとけないおせっかい焼きなツンデレ杏子」という魅力的な配役もされていて、様々な面で空想を巡らせることもできる。その塩梅が絶妙であったために人気が出た、ということだと思います。/こういう「配役と物語背景の相乗効果で生み出す人間関係の妙」を論じた物語論ってあるんでしょうか?」

 ……という件ですが、独りで頑張りすぎてアブないマミさんと、杏さやのカップルとについては、話が複雑になるので今回は「ほむまど」だけに絞るとして、ここをていねいに考察するには、やはり「セカイ系」という用語(概念)を導入するのが有益なようです。
 セカイ系とは、『主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)とを中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといったおおげさな問題に直結する作品』というのが一応のぼくの定義なんですが、だとすればまさしく「まどか☆マギカ」はセカイ系に他ならないでしょう。
 批評家の佐々木敦さんは、
「セカイ系とは、言ってみれば「世界」を、地球とか宇宙とか過去とか未来とかをあっさりと超えた、ほとんど無限に近いものにまで一旦拡張し捲ったうえで、いきなり学校とか教室とかお茶の間とか自室のレベルにまで縮減し、遂には誰かの脳内の妄想とか想像に行き着いてしまうという、デカルト的懐疑の極端な『真に受け』というか、ベタな独我論のようなものである。」
 とか、
「たとえば「ぼく」にとって「世界=セカイ」と完全に同義/同値のヒロイン(きみ)は儚くも消滅する、最初から消滅すべき定めにしたがって消滅するのだが、それと引き換えに「ぼく」は生き残った自分自身の存在を以前よりポジティヴに受け止められるようになり、後には反復可能な想い出が残される。つまり、まず「世界」が「きみ」に変換され(或いは「きみ」が「世界」に変換され)て「セカイ」になり、その「セカイ」が抹消される(=「きみ」が永遠にいなくなる)ことによって「世界」が回帰する、それを失われた「セカイ」の「記憶」が底支えしている、という構造である。もちろん、この変換はあからさまな飛躍であるから、出来るだけトンデモない飛躍でなければならない。こうして徹底してアンリアルなファンタジーやSF的設定が召喚されることになるわけである。」
 などといった説明を試みたうえで、このような「セカイ系」の物語のことを、
「肯定的な悲劇」
 と称しています。じつはこれは「ハルヒ」を論じたエッセイのなかの文章なんだけど、まるで誂えたかのように、「まど☆マギ」にも当てはまりますよね。つまりは、ニッポンのゼロ年代~イチゼロ年代初頭を代表する優れた物語(ファンタジー)の多くが、同種の構造というか、「世界観」に基づいてたってことでしょう。
 このばあい、「ぼく」が暁美ほむらに当たるから、やっぱり真の主人公はまどかではなくほむらだよなって話にもなるわけですが。
 さて、これが2011年初頭のことで、しかし2013年に公開された『叛逆の物語』は、テレビ版が出したこの結末をひっくり返すものだった。とはいえその映画版のほうの結末もまた、「誰か(=ほむら)の妄想とか想像に行き着いてしまうという、デカルト的懐疑の極端な真に受けというか、ベタな独我論のようなもの」に(も)視えてしまうという点で、やっぱりこれも「セカイ系」の範疇から出るものではない……。
 それはそれでいいんだけど、ぼく自身は、「まど☆マギはセカイ系ね。はいおしまい」で済ませる気分には今のところなれない。テレビシリーズ全12話を踏まえたうえでの『叛逆の物語』がどうしても気にかかるっていうか、妙な具合に刺さっちゃってるんですね、ずっと。
 むろん「神まどか」「悪魔ほむら」は正当なキリスト教の文脈からみればただのフェイクに過ぎないし、ほむらのセリフ「これこそが人間の感情の極み。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの…………愛よ。」にしても、ロマン主義的すぎて滑稽と言やぁ滑稽なんだけど、打ち明けていうと、初めて観たときにはけっこう感動しちゃったし、じつはいまだに、その余韻を引きずってるところがあります。
 ここでまたメロドラマに戻るんですが、ブルックスさんのいう「日常の人間関係の中での本質的道徳」(倫理)ってだけには留まらず(それは純文学の管轄です)、プレモダン(前近代的)な「聖なるもの(ヌミナス)」を表現できてるんじゃないか……それくらいの水準に達しちゃってるんじゃないか……。ただの思い入れ過剰かもしれないけど、とりあえず現時点では、そんな気持ちでおります。
 これはまあたぶん、「暁美ほむら」というキャラにどこまで感情移入できるのか。に掛かっていると思うので、「わかるわかる」という方と、「何のこっちゃ」という方と、二手に分かれるかと思うんですが、ここにきておもむろに「メロドラマ」なんて話をブログで始めたのには、そういう裏がありました。いきなり述べてもぜったい誰にも通じないだろうと思ったんで、何回かかけて少しずつ(自分の考えをまとめつつ)書いていこうと思ったんだけど、刺激的なコメントを頂戴したおかげで、なんか一挙に語ってしまいました(笑)。
 それでもまだ、思うところをきちんと言語化できてない憾みはとうぜん残っています。上で保留した「5人の関係性」の件も含めて、ひきつづき、あっち行ったりこっち行ったり、ふらふらよたよた寄り道しながら、ゆるゆると進めていきたいと思います。よろしかったらまた覗いてやってください。











メロドラマ。その②

2019-11-06 | 物語(ロマン)の愉楽
 「神話」といえば古代のもの、「説話」といえば中世のもの、では近世(17~19世紀前半、日本では江戸期)に成立した「物語」のジャンルを総称してどう呼べばよいか、と考えて、「メロドラマ」なんていいんじゃないか、と思いついた。
 という話を前回やりました。
 まあ、当ブログでは何でもかんでも「神話」「神話」と言っちゃうもんで、もう少し詰められないかと思ったわけだけど。
 メロドラマの定義を再掲しよう。








「登場人物のパターン」


◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)




「ストーリー上の骨格」


(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別する。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する(悲劇にも喜劇にも偏らずに)。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。






 「ヒロインを補佐する者たち」が、「侍女、子供、許嫁、農夫など」となってるのは、「メロドラマ」ってものがヨーロッパ、もっというならフランスで熟したからなんだよね。つまり日本の歌舞伎や浄瑠璃なんかには当て嵌まらない。そもそも歌舞伎や浄瑠璃で「主人公は女性でなければならない」なんてこたぁ決してないしね。
 だから、近世に成立した「物語」のジャンルをまとめて「メロドラマ」と一括するのは無理がある。だけどここではべつに世界文学史をアカデミックに概観したいわけじゃない。
 ぼかぁ、今の日本で百花繚乱咲き誇ってるサブカルってものを考察したいわけですよ。考察というか、とくにアニメなんだけど、純文学に比べて明らかに他愛ないはずの代物に、どうしてこんなに心惹かれるのか、そこを自分なりに解き明かしたいわけ。そのための手がかりになるものならば、とりあえず、どんなもんでも引っ張ってくる所存であります。
 そうなると、メロドラマって用語(概念)はとても便利だ。多少の無理には目をつぶって、もう少し突っ込んでみましょう。
 ぼくは前回の記事の末尾で「プリキュアシリーズ」と「まどか☆マギカ」の名を出したけど、上掲の「登場人物のパターン」を初めて見たとき、ぱっと念頭に浮かんだのは橋田壽賀子さんの『おしん』ですね。
 NHK連続テレビ小説、いわゆる朝ドラの第31作め。本放送は1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日までだから、まさにバブル前夜だな。平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%というのは、朝ドラのみならず、およそテレビドラマとしては歴代の記録で、これはいまだに破られてないし、この先も破られることはないと思う。
「スリランカ、インドネシア、フィリピン、台湾、香港、ベトナム、アフガニスタン、シンガポール、エジプト、イランなど世界68の国や地域で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめず、明治、大正、昭和という貧困・戦乱・復興の中を生きた主人公・おしんの姿が、日本だけでなく世界各国で人々の共感を呼び、オシンドロームという言葉を生み出した。世界で最もヒットした日本のテレビドラマとされ、なおファンが多く根強い人気がある。」
 とのこと。いや、これはほんとに凄いことですよ。
 平成生まれの若い人には馴染みが薄いと思うので、興味がおありならこちらをご参照ください。wikiです。上に引用させてもらったデータを含め、あらすじなどもけっこう詳しく載ってます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%93



 このドラマは明治末期の貧農の家に生まれた女性の一代記で、時代背景もていねいに描き込まれてるし、ヒロインの嘗める辛酸ってものが微に入り細を穿って生々しくリアルに紡がれるから、「メロドラマ」なんて括っちゃうのは失礼で、むしろ社会派リアリズム劇というべきだけど、しかし骨格そのものは紛れもなくメロドラマのそれなんですね。
 冒頭に掲げた「登場人物のパターン」で、ヒロインの次に「父親」がくるのは、時代がそれだけ家父長専制的で、父親がほぼ社会的権威の代表でもあったからだろう。あの伊東四朗はまさにそうだった。茶の間で見てても怖かったもんね。
 いまどきのドラマやアニメに出てくる父親は、戦後民主主義の成れの果てっていうか、昔だったら「軟弱」といわれかねないイメージでしょう。だからこの点は大いに違う。だけど、それ以外については、もっぱら大革命いこうのフランスにおいて成熟した「メロドラマ」という骨組みがけっこうそのまま通用するように思うんですよ。




 むろん日本の歌舞伎や浄瑠璃なんかでも、もろに女性を主人公には据えずとも、メロドラマ的な要素はたっぷり含まれてたわけだし、それが明治以降は新派劇などに受け継がれ、さらには映画に流れこんで「松竹メロドラマ」のムーブメントをつくる。まあ、もともと素養がないんで例によって荒っぽい話をしておりますが、おおよその系譜としては、そんなに間違ったことは言ってないはずだ。
 それがさらにまた活字文化(ようするに大衆小説)にフィードバックされたり、そののちにはマンガ、ひいてはアニメに応用されたりして、いろいろと曲折のあげく、高度成長期以降、テレビアニメというジャンルにおいて、「戦う魔法少女」なんていう世界にも類を見ないフォーマットが確立されちゃった。そこではメロドラマのもつ「メロドラマ性」が、より濃厚に、より蠱惑的に強調される。善と悪とが明快な「二元論」に収斂されて、「味方」か「敵」かに峻別されるとか、日常生活のなかのドラマが「崇高」なものに仕立て上げられるとか……そういった性質は、「バトル」という条件によってより強烈に際立つわけだからね。
 つまりはそれがプリキュアシリーズの、さらには「まどか☆マギカ」の魅力の依って来たる所以(のひとつ)ではないか。そんなふうに考えるわけです。









メロドラマ。その①

2019-11-01 | 物語(ロマン)の愉楽
 「神話」には確かに物語のパターンがぜんぶ詰まっているけれど、時代区分でいえばそもそもは「古代」に属するものだ。また、「説話」はおよそ中世に属するものだろう。
 だから「神話」「説話」からぽーんと今に飛んじまうのは乱暴だ。ところが、ブログの過去記事を読み返してみると、ぼくはなんだかいつもそんな調子で論を立ててる。「神話」なる用語(概念)を濫用しすぎてる。いけません。
 17・18、そして19世紀の前半、ニホンでいえば江戸時代、つまり近世ですね、その時期にもとうぜん「物語」はいっぱい作られたのに、その辺についての認識が浅い。まあ、よう知らんからですが。
 よう知らんなりに、もう少し、腰を落としていきましょう。
 「神話」や「説話」はもっぱら「詠み人知らず」だけれど、近世ともなれば、物語の作り手が固有名をもって立ち上がってくる。早い話が「作者」ですね。
 といって、皆がみな名前を留めてるわけでもなく、いっちゃ悪いが有象無象も少なくない。というか、有象無象が累々と折り重なってつくった土壌の上に、選ばれた僅少の才能が花開く感じか。
 それと、この頃になると、物語は筆で書かれるものだけとは限らない。西洋でいえばオペラ(初期の)とか、日本でいえば歌舞伎とか、浄瑠璃とか、ビジュアルや音響が加わってくる。むろん、中世からつづくロマンスやら騎士道物語のバリエーション、日本だったら戯作やら黄表紙、そういったコトバの芸術だって、質量ともに膨れ上がっていく。
 古代が「神話」で中世が「説話」。……では、近世にうまれたそれらの「物語」を一括できる総称はないものか。
 そう考えて、「メロドラマ」という用語(概念)に思い至った。メロドラマ。いいね。もちろん外れる部分も多いんだけど、とりあえず今回は、これを掘り下げてみましょう。




 ピーター・ブルックスさんの『メロドラマ的想像力』によれば、メロドラマの作劇術とは以下のようであるらしい。「らしい」というのは手元に当の本がなく、ネットの記事を頼りに書いているからだ。




 新しい「メロドラマ」と現代文学の可能性――ピーター・ブルックス『メロドラマ的想像力』読解
http://borges.blog118.fc2.com/blog-entry-1539.html

 元の記事をそのまま引き写すのではなく、適宜、編集させていただきますが……。


「メロドラマの登場人物のパターン」

◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)




「メロドラマのストーリー上の骨格」

(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別する。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する(悲劇にも喜劇にも偏らずに)。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。

 (1)の補足……ヒロインの「心理」なんてのは、およそ「メロドラマの登場人物の定型」からシンプルに導かれるから、「メロドラマにはヒロインの《心》なんてものは存在しない。ヒロインはつねに「喜怒哀楽」のそれぞれの極から極へとジャンプし、「中間(平穏)」はない。


 元の記事ではこのあと、バルザック、ヘンリー・ジェイムズ、スタンダール、ユゴー、ディケンズらに加え、ロレンス、ドストエフスキー、プルーストなんてビッグネームまで出てくるので、文学史に興味をお持ちの方はぜひご参照ください。

 どうでしょうか。さすがに時代が近くなってきてるだけあって、より直截に、現代サブカルにつながる条項になってる……と思いませんか。いや面白いなこれ。
 「主人公は女性でなければならない」なんてね。
 この時代、女性は「庇護されるべき存在」だから、あえて主人公に擬されるんだよね。いまは真逆で、社会進出が常態になったからこそ主人公になる。しかも、これまで「男の主人公」ができなかった偉業を成しうる可能性をもった存在として。
 「まんまディズニーじゃん」という感じもしますが。しかし、すこしアレンジを施せば、宮崎アニメにも、プリキュアシリーズにも当て嵌まりますよね。ってことはつまり、「まどか☆マギカ」にも当て嵌まるわけだ。

つづく