さて。話がすこし逸れたけれども、「竜退治」のパターンがエンタメにおけるストーリーづくりの王道……というより、基本中の基本であることは申すまでもないだろう。「ヒーロー(主人公)」がいて「悪役」がいて、そのワルに苦しめられている「姫」がいる。悪役は必ず主人公よりかなり強い。むろん、さもなくば話がすぐに終わってしまうからである。ヒーローが艱難辛苦を乗り越えて、努力の果てに敵を打ち倒し、「姫」を解放する。そのプロセスこそが「お話」の内容そのものなのだから。
それで、まあ、解放された姫様が「おお。大儀であったの。あとで褒美をつかわすぞ」と言ってさっさと城に帰っちゃったらあんまりなので、姫様はそういうキャラではなくて、たいてい主人公と恋に落ちる。そこで「竜退治」に「ロマンス」が重なる(もちろん、特に最近のものでは、共に力を合わせて戦う過程で信頼や愛情が育まれてることが多い)。この「ロマンス」は、こないだまでブログでやった「メロドラマ」とはまた別物だけど、ほぼ似たようなもんである。
「竜退治」+「ロマンス」。ハリウッド映画から日本の深夜アニメまで、エンタメ(サブカル)はことごとくそのバリエーションとして紡がれる。
宮崎駿作品だと、いうまでもなく『天空の城 ラピュタ』。その前哨として『未来少年コナン』というテレビシリーズもあったし、「ルパン三世」のフォーマットに落とし込んだら『カリオストロの城』になる。
きわめて興味ぶかいのは、これも日本のエンタメ消費者にとってはお馴染みながら、今や「ヒーロー(主人公)」が女性になり、男子(男性)のほうが「姫」の役を割り当てられるケースが多いことだ。ジェンダー・ロールが入れ替わっている。いちばんいい例が『風の谷のナウシカ』。きのう金曜ロードショウでやってた(2回目)『アナと雪の女王』もとうぜん入る。プリキュアしかり、まど☆マギしかり。こんな恣意的にピックアップするんじゃなしに、きちんと綿密に辿っていけば、これはこれで有益なレポートができる。
もうひとつ注目すべきは、退治される「竜」の末裔としての「悪役」である。もとより昔から「ピカレスク・ロマン」といって、並外れた魅力をもった「ワル」を描く作品の系譜はあったけれども、大体においてプレモダン(近代以前)の作品においては勧善懲悪、すなわちワルはどうにもこうにも御しがたい根っから性根の腐りきった更生不能のクズであり、善玉のほうは生まれつき品行方正で眉目秀麗な好漢として描かれるのが常だった。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が典型的だが、これは儒教道徳の影響に加え、馬琴が癇性なまでに生真面目な人だったのが大きい。
ハリウッドでは、おもに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた70年代半ば頃(つまりベトナム戦争以降)の作品あたりから、「悪」の形象が複雑になり、深みを帯びて描かれるのが当たり前になってきた。
その流れのおそらく頂点に位置するものが2008年の『ダークナイト』におけるヒース・レジャーのジョーカーであり(彼は本作の公開を待たずに亡くなった。役作りにのめり込みすぎたためと言われている)、今年度の『ジョーカー』におけるホアキン・フェニックスのジョーカーなのだろう。
附言するならば、今年の『スタートゥインクル☆プリキュア』がここにきて深みを増し、格段に面白くなってきたのは、「悪役」たちがそれぞれに過去を背負って、陰影ゆたかに描かれているからだ。ここが昨年の『HUGっと!プリキュア』との最大の違いだ。「悪」についての掘り下げをおろそかにして人の心を打つ作品はできない。
それで、まあ、解放された姫様が「おお。大儀であったの。あとで褒美をつかわすぞ」と言ってさっさと城に帰っちゃったらあんまりなので、姫様はそういうキャラではなくて、たいてい主人公と恋に落ちる。そこで「竜退治」に「ロマンス」が重なる(もちろん、特に最近のものでは、共に力を合わせて戦う過程で信頼や愛情が育まれてることが多い)。この「ロマンス」は、こないだまでブログでやった「メロドラマ」とはまた別物だけど、ほぼ似たようなもんである。
「竜退治」+「ロマンス」。ハリウッド映画から日本の深夜アニメまで、エンタメ(サブカル)はことごとくそのバリエーションとして紡がれる。
宮崎駿作品だと、いうまでもなく『天空の城 ラピュタ』。その前哨として『未来少年コナン』というテレビシリーズもあったし、「ルパン三世」のフォーマットに落とし込んだら『カリオストロの城』になる。
きわめて興味ぶかいのは、これも日本のエンタメ消費者にとってはお馴染みながら、今や「ヒーロー(主人公)」が女性になり、男子(男性)のほうが「姫」の役を割り当てられるケースが多いことだ。ジェンダー・ロールが入れ替わっている。いちばんいい例が『風の谷のナウシカ』。きのう金曜ロードショウでやってた(2回目)『アナと雪の女王』もとうぜん入る。プリキュアしかり、まど☆マギしかり。こんな恣意的にピックアップするんじゃなしに、きちんと綿密に辿っていけば、これはこれで有益なレポートができる。
もうひとつ注目すべきは、退治される「竜」の末裔としての「悪役」である。もとより昔から「ピカレスク・ロマン」といって、並外れた魅力をもった「ワル」を描く作品の系譜はあったけれども、大体においてプレモダン(近代以前)の作品においては勧善懲悪、すなわちワルはどうにもこうにも御しがたい根っから性根の腐りきった更生不能のクズであり、善玉のほうは生まれつき品行方正で眉目秀麗な好漢として描かれるのが常だった。
滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』が典型的だが、これは儒教道徳の影響に加え、馬琴が癇性なまでに生真面目な人だったのが大きい。
ハリウッドでは、おもに「アメリカン・ニューシネマ」と呼ばれた70年代半ば頃(つまりベトナム戦争以降)の作品あたりから、「悪」の形象が複雑になり、深みを帯びて描かれるのが当たり前になってきた。
その流れのおそらく頂点に位置するものが2008年の『ダークナイト』におけるヒース・レジャーのジョーカーであり(彼は本作の公開を待たずに亡くなった。役作りにのめり込みすぎたためと言われている)、今年度の『ジョーカー』におけるホアキン・フェニックスのジョーカーなのだろう。
附言するならば、今年の『スタートゥインクル☆プリキュア』がここにきて深みを増し、格段に面白くなってきたのは、「悪役」たちがそれぞれに過去を背負って、陰影ゆたかに描かれているからだ。ここが昨年の『HUGっと!プリキュア』との最大の違いだ。「悪」についての掘り下げをおろそかにして人の心を打つ作品はできない。