ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

メロドラマ。その②

2019-11-06 | 物語(ロマン)の愉楽
 「神話」といえば古代のもの、「説話」といえば中世のもの、では近世(17~19世紀前半、日本では江戸期)に成立した「物語」のジャンルを総称してどう呼べばよいか、と考えて、「メロドラマ」なんていいんじゃないか、と思いついた。
 という話を前回やりました。
 まあ、当ブログでは何でもかんでも「神話」「神話」と言っちゃうもんで、もう少し詰められないかと思ったわけだけど。
 メロドラマの定義を再掲しよう。








「登場人物のパターン」


◎ヒロイン
◎その父親
◎ヒロインを苦しめる者(迫害者)
◎ヒロインを助ける者(正義漢)
◎ヒロインを補佐する者たち(侍女、子供、許嫁、農夫など)




「ストーリー上の骨格」


(1)喜怒哀楽の「激情」に「ヒロイン」が耽溺する(主人公は女性でなければならない)。
(2)すべての人物が、つねに劇的な、誇張した大げさな身ぶりをする。
(3)どんな読者/観客にとってもわかりやすい。けして高尚にならない。
(4)善と悪とを明快な「二元論」に集約する。つまり「中庸」を排し、登場人物は「味方」か「敵」かに峻別する。
(5)日常生活のなかで起きるドラマを美学化する(悲劇にも喜劇にも偏らずに)。たとえ陳腐な出来事でも、誇張法などを惜しまずに駆使して「崇高」なものに仕立てる。
(6)物語のラストでは必ず「美徳」(味方=善)が勝利する(それまでは、悪役による迫害をこれでもかと描く)。






 「ヒロインを補佐する者たち」が、「侍女、子供、許嫁、農夫など」となってるのは、「メロドラマ」ってものがヨーロッパ、もっというならフランスで熟したからなんだよね。つまり日本の歌舞伎や浄瑠璃なんかには当て嵌まらない。そもそも歌舞伎や浄瑠璃で「主人公は女性でなければならない」なんてこたぁ決してないしね。
 だから、近世に成立した「物語」のジャンルをまとめて「メロドラマ」と一括するのは無理がある。だけどここではべつに世界文学史をアカデミックに概観したいわけじゃない。
 ぼかぁ、今の日本で百花繚乱咲き誇ってるサブカルってものを考察したいわけですよ。考察というか、とくにアニメなんだけど、純文学に比べて明らかに他愛ないはずの代物に、どうしてこんなに心惹かれるのか、そこを自分なりに解き明かしたいわけ。そのための手がかりになるものならば、とりあえず、どんなもんでも引っ張ってくる所存であります。
 そうなると、メロドラマって用語(概念)はとても便利だ。多少の無理には目をつぶって、もう少し突っ込んでみましょう。
 ぼくは前回の記事の末尾で「プリキュアシリーズ」と「まどか☆マギカ」の名を出したけど、上掲の「登場人物のパターン」を初めて見たとき、ぱっと念頭に浮かんだのは橋田壽賀子さんの『おしん』ですね。
 NHK連続テレビ小説、いわゆる朝ドラの第31作め。本放送は1983年(昭和58年)4月4日から1984年(昭和59年)3月31日までだから、まさにバブル前夜だな。平均視聴率52.6%、最高視聴率62.9%というのは、朝ドラのみならず、およそテレビドラマとしては歴代の記録で、これはいまだに破られてないし、この先も破られることはないと思う。
「スリランカ、インドネシア、フィリピン、台湾、香港、ベトナム、アフガニスタン、シンガポール、エジプト、イランなど世界68の国や地域で放送され、苦難に遭いつつも決してあきらめず、明治、大正、昭和という貧困・戦乱・復興の中を生きた主人公・おしんの姿が、日本だけでなく世界各国で人々の共感を呼び、オシンドロームという言葉を生み出した。世界で最もヒットした日本のテレビドラマとされ、なおファンが多く根強い人気がある。」
 とのこと。いや、これはほんとに凄いことですよ。
 平成生まれの若い人には馴染みが薄いと思うので、興味がおありならこちらをご参照ください。wikiです。上に引用させてもらったデータを含め、あらすじなどもけっこう詳しく載ってます。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%97%E3%82%93



 このドラマは明治末期の貧農の家に生まれた女性の一代記で、時代背景もていねいに描き込まれてるし、ヒロインの嘗める辛酸ってものが微に入り細を穿って生々しくリアルに紡がれるから、「メロドラマ」なんて括っちゃうのは失礼で、むしろ社会派リアリズム劇というべきだけど、しかし骨格そのものは紛れもなくメロドラマのそれなんですね。
 冒頭に掲げた「登場人物のパターン」で、ヒロインの次に「父親」がくるのは、時代がそれだけ家父長専制的で、父親がほぼ社会的権威の代表でもあったからだろう。あの伊東四朗はまさにそうだった。茶の間で見てても怖かったもんね。
 いまどきのドラマやアニメに出てくる父親は、戦後民主主義の成れの果てっていうか、昔だったら「軟弱」といわれかねないイメージでしょう。だからこの点は大いに違う。だけど、それ以外については、もっぱら大革命いこうのフランスにおいて成熟した「メロドラマ」という骨組みがけっこうそのまま通用するように思うんですよ。




 むろん日本の歌舞伎や浄瑠璃なんかでも、もろに女性を主人公には据えずとも、メロドラマ的な要素はたっぷり含まれてたわけだし、それが明治以降は新派劇などに受け継がれ、さらには映画に流れこんで「松竹メロドラマ」のムーブメントをつくる。まあ、もともと素養がないんで例によって荒っぽい話をしておりますが、おおよその系譜としては、そんなに間違ったことは言ってないはずだ。
 それがさらにまた活字文化(ようするに大衆小説)にフィードバックされたり、そののちにはマンガ、ひいてはアニメに応用されたりして、いろいろと曲折のあげく、高度成長期以降、テレビアニメというジャンルにおいて、「戦う魔法少女」なんていう世界にも類を見ないフォーマットが確立されちゃった。そこではメロドラマのもつ「メロドラマ性」が、より濃厚に、より蠱惑的に強調される。善と悪とが明快な「二元論」に収斂されて、「味方」か「敵」かに峻別されるとか、日常生活のなかのドラマが「崇高」なものに仕立て上げられるとか……そういった性質は、「バトル」という条件によってより強烈に際立つわけだからね。
 つまりはそれがプリキュアシリーズの、さらには「まどか☆マギカ」の魅力の依って来たる所以(のひとつ)ではないか。そんなふうに考えるわけです。