ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

「HUGっと!プリキュア」について 08 「いじめ」という題材。

2018-09-26 | プリキュア・シリーズ
 エドガール・モランというフランスの社会学者が、こんな意味のことをいっているそうだ。
「中間的な大きな文化の流れのなかでは、もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される。」
「中間的な大きな文化の流れ」とは、つまりは高度消費社会における大衆文化ってことで、まさにぼくたちの社会が生み出す文化そのもののことなんだけど、そこでは「もっとも創造的な動きは窒息するが、もっとも俗悪で標準的なものが洗練される」と、モランさんはおっしゃるのである。
 俗悪、というとコトバが悪いが、「ポップ」と言い換えれば耳ざわりが良くなる。今や海外に向けてニッポンを代表する文化=産業となった「マンガ」や「アニメ」こそがこれだろう。いっぽう、「もっとも創造的な動き」であるはずの純文学は、なるほどたしかに窒息している。
 プリキュアシリーズなんて、身も蓋もないことをいってしまえば、玩具メーカー(その他)のための販促アニメなのである。中身(コンテンツ)があってスポンサーが付いてるわけじゃなく、その逆で、まずスポンサーありきなのだ。
 だから彼女たちの用いる「アイテム」はつねに最新のCGで映像化されて強調されるし、「追加戦士」が「新アイテム」(=新商品)を携えて登場すれば、向こう一ヶ月くらい大いに優遇されることになる。登場シーンも見せ場も増える。脚本も演出も、そのために力を尽くすわけだ。
 すべては、露骨なまでの市場原理の内にある。あきらかにそれは作り手の側にとっての「制約」だ。その制約の中で、どこまで質の高い作品を残せるか。視聴者(大人も含めて)の心を、どこまで揺さぶることができるか。
 本年で15作目となるこのシリーズは、そんな試みの歴史でもある。その試みの積み重ねにおいて、「ポップ」が洗練されていく。いわばひとつの実験場といっていい。
 「HUGっと!プリキュア」は、シリーズで初めて「いじめ」を取り上げた。主人公の野乃はなは、前の学校で、いじめられている友達をかばったために自分が仲間外れにされ、クラスで孤立してしまった。何しろニチアサの児童向けアニメであるからして、ねちっこく描写されるわけではないから詳細は不明だけれど、どうも登校拒否に近いところまでいったようだ。母のすみれは、「大丈夫。はなのしたことは間違ってない。」と強く肯定したうえで、「転校」という選択肢をとった。はっきりと描かれることはなかったが、もちろん父の森太郎も、その決断を受け容れたわけだ。
 なお、さまざまな描写から推察するに、野乃家は一家ぐるみ引っ越しをしたわけではなく、はなが中学を移っただけのようである。
 クラスや学校で仲間外れにされるのを、近ごろの用語で「ハブられる」というらしい。「省かれる」の転訛かなと思ったら、どうも「村八分」から来ているそうだ。封建時代以前の用語がこのハイテク時代の学生たちにそのまま引き継がれてるってのも、よく考えるとブキミな話である。われわれの近代は、ひいてはあの大戦を経ての「戦後」ってものは、果たして何だったんだろう。結局われわれの心根なんて、ちっとも進歩しちゃいないのか。
 たぶんそういうことだろう。もう一ついえば、いまの学校というものが、かつての「村落共同体」に似たシステムになってしまってるってことだとも思う。それも、負の面をより強調した村落共同体だ。
 これは本来、社会学者がけっこう真剣に取り組まなけりゃいけないテーマだ。そして、本来ならば社会学者が真剣に取り組まなけりゃいけないテーマを、リアルタイムで俎板(まないた)に乗せて調理してみせるのが、「ポップ」の仕事なのである。
 統計を取ったわけではないけれど、日本のアニメは、深夜ものを含めておおよそ7割強が「学生」ないしその年齢の若者を主人公に据えていると思われる。いきおい舞台も、「学園」が多くなる。「学園」というハイテク化された村落共同体(ムラ社会)での生き方、より精確にいうなら「人づきあい」の難しさ。それが煮詰まった形で出たのが「ハブ」であり「いじめ」であって、正面きって取り上げるか、何らかの形で言及するか、いずれにしても、今やこの要素を完全に捨象して作品をつくることはできない。
(近年の劇場アニメとして、「正面きって取り上げ」た代表作は『聲の形』だけれど、これに比べれば遥かに「絵空事」寄りの『君の名は。』でさえも、三葉がクラスメートからチクチクと嫌がらせされる描写はあったのである。)
 「HUGプリ」が「いじめ」を作品世界に導入したのは、シリーズ構成・坪田文さんの判断だったろうが(そこまで深くは考えなかった……という気もするが)、思い切った一歩だといえる。ただ、次回作以降に引き継がれるかどうかはわからない。
 はなが「ハブられていた」過去がぼくたち視聴者に明かされたのは、7月8日に放映された23話だった。ほかにも気の滅入る事態がてんこ盛りで、児童アニメとしては異例の陰鬱な回となっていたのだが、これ自体とにかく大きな案件だから、いつ、どのようにして回収するのかぼくもたいへん気になった。はなを「ハブった」相手は複数なので、全員と和解するってことは考えにくい。現実世界ならむろん、なんのフォローとてなく、有耶無耶になってしまう事例がほとんどだろうが、これは「物語」なんだから、何らかのカタルシスは絶対に必要なのである。
 あるいはラスト間際まで引っ張るか……とも思っていたが、蓋をあけてみると、わりと早くて、9月9日の31話で、大きな進展があった。
 はながハブられる原因を(結果的に)つくった「エリ」が、はなを訪ねてくる。エリはチアリーディング部で、演技の「センター」に選ばれたために嫉妬され、ほかの部員から責め立てられた。はなは彼女と親友だったが、自らが部員というわけではなかったようだ。しかしその状況を見かねて、いじめの現場に割って入り、「やめようよ。みんな、カッコ悪いよ」とエリを庇った。それが反感を買ったわけである。

 

 「カッコ悪い」(その対義語は「イケてる」)というのは、浅薄な言い回しだけれど、ボキャブラリーが豊かとはいえないはなにとっての、大切な評価基準である。そもそも彼女は、01話において、巨大な敵を前にして、「ここで逃げたら、カッコ悪い」と思ったからこそプリキュアに成った(もし成れてなかったらマジで潰されてた。そう考えるとこのアニメけっこうコワい)。
 どれくらいの規模の中学なのか知らないが、「チアリーディング部」と「学級」のメンバーがまるっきり一緒ってことはないはずなので、チア部の反感を買ったからってクラス中からハブられるってのも飛躍があるけれど、そこは突っ込めば突っ込むほど暗くなるから、ぼかされている。


 はながスケープゴートになったことで、エリはいじめの標的から外れた。のみならず、ふたたび自分がそちらの立場になることを恐れ、孤立するはなに手を差し伸べることもしなかった。こういうのもまあ、よく聞く話だ。それでチア部も続けてたんだけど、はなが転校してしまい、ずっと気にかかっていた。それでたまたま、「キュアスタ」(作品内用語。インスタグラムのことである)にアップされたはなの写真を見て、矢も楯もたまらなくなって、会いに来たのだった。
 しかし、いざ本人を前にすると、うまく言葉が出てこない。エリは逃げ出す。はなもまた、激しく気持ちを揺さぶられ、ちょっと挙動不審になる。
 かくて朋友(とも)らが動き出す。
 さあやとほまれは、エリを喫茶店に誘い、そこで初めて一部始終を知る。たんに「はなが過去にハブられていた」という事実を知ったってだけじゃなく、これまでのことを考え合わせて、それぞれに思うところがあったのだろう。それでこういうことになる。


 当ブログ7月17日の記事「朋友(とも)は光のなかに。」で述べたシーンが、より深化され、三たび反復されるわけだ。
 しかし今度の件は重いので、ただ抱擁しておしまいってわけにはいかない。はなは二人に、これまで自分の過去を黙っていたことを詫び、「やっぱ、カッコ悪いと思ったから……」という。それを受けての二人のせりふ。
 ほまれ「カッコ悪くなんてない。はなのしたこと、ぜったい間違ってない。すごく、イケてることだよ」
 さあや「カッコ悪いのは、誰かの心を傷つける人たち!」
 義侠の女・ほまれより、さあやのほうが激しい言葉を吐くところが印象に残るが、薬師寺さあやというひとは、淑やかなルックスの割にせりふはたいてい「体言止め」だし(「よ」とか「なの」とか「だわ」といった女性っぽい接尾辞をつけない)、じつのところ、ほまれ以上に気が強いんじゃないかとぼく個人は思う。
 はなは二人に、自分はエリに怒っているのではなくて、それどころか、「余計なお節介を焼いて、彼女に迷惑をかけたんじゃないか」と気に病んでいたと告げる。このあたり、正直ぼくにはよくわからなくて、理不尽には本気で腹を立てる彼女の性格にそぐわないと思うが、まあ、根がとことん善良でナイーブな娘さんなのか。
 あるいは、これまでのエピソードを思い返してみると、はなが「本気で怒る」のは他人が傷つけられた時だけで、自分のことでは怒ってなかった……気もする。だとしたら坪田文というのは大した作家さんだが、ここは改めて確かめなくては明言できない。
 ともあれ、この31話の脚本の方針として、「怒り」の感情を表に一切出さないのである。そこが少なからぬ視聴者に違和感を覚えさせた面はあると思う(ぼくも覚えた)。さあやのいうとおり、悪いのは「誰かの心を傷つける人たち」であって、はなもエリも被害者じゃないか。「いじめ」の当事者たちはどうなってんだ。
 しかし、脚本の主旨はその糾弾にはない。サブタイトルは「時よ、すすめ!メモリアルキュアクロック誕生!」である。あくまでも、はな(およびエリ)の「止まった時間が動き出す」ことが今回のテーマなのだ。
 さあやがいう。
「勇気を出してもういちどエリちゃんの心にふれたとしても、うまくいくかどうかはわからない。けど、はなには、私たちがいる」
 ほまれがつづける。
「うん。だって私たち、はなのこと……大好きだからさ」
 そこに現れたえみるとルールーは、彼女たちの特性どおり、音楽で、はなにエールを送る。その歌に唱和するさあやとほまれ。「あふれる愛がはなを包みこむ」と、紋切り型の形容をしたくなるほどの、ただただ甘やかなシーンである。
 ずっと心の傷を抱えたまま、31話までエピソードを積み重ねてきて、ここでようやく、はなも朋友たちに胸襟を開くことができたのかもしれない。
 そうして彼女は、5人そろって、チアリーディングの発表会に臨むエリのもとを訪ねていく。もちろんそこには、かつて彼女をハブって転校にまで追い込んだ部員の面々もいるわけである。
 新天地に根を下ろし、4人の朋友をえた彼女はもう、これまでの野乃はなではない。
 部員たち「え野乃さん? なんで居るの? てか、その前髪どうしたの?」


 部員たちには、はなを転校に追い込んだという自責の念などさらさらない。いやそもそも、彼女をいじめてた自覚があるかすら疑わしい。ぼくにいわせれば、こういう人たちは「クライアス社」よりも何十倍も怖しいけれど、こんなのにはもう、怒ったところで仕方がない。はなの態度が大人なのだろう。ただ、それが本当の意味で正しいのかどうかは、簡単には答が出せないところだ。
 いっぽう、はなとエリとの関係性は、むろん遥かに人間的である。
 エリ「ののたん……ごめん」
 はな「わたし、謝って欲しいなんて……思ってないよ。許すとか、許さないとか、そういうのじゃない。ただ、わたしエリちゃんのこと、やっぱ好きだからさ、また、友達になりにきたんだ」
 過去のことはもういい。許すとか許さないとかじゃない。いちど友達の縁が途切れて、それを残念に思うなら、また新しく友達になればいい。
 どこまでも前向きなのである。これこそが「HUGっと!プリキュア」のメインテーマでもある。ただ、それでは「誰かの心を傷つける人たち」の「罪」が曖昧になってしまうのもまた確かだ。
 「HUGっと!プリキュア」の31話は、ひとつの麗しいエピソードだった。しかしこれが、「いじめ」という巨大かつ根源的な主題に対する正しい回答かといえば、とうていそうは思えない。課題は山ほど積み残されている。それはもう、おそらくプリキュアシリーズの手には負えない。より対象年齢層の高い他の作品に委ねられるべきことだろう。




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