ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

ひきつづき、『風立ちぬ』のこと。④ カストルプ

2019-04-23 | ジブリ



 こんなに長々やるつもりはなかったんだけどな。書き出すとだんだん面白くなってきてね……。さすがに奥が深いわ。そりゃそうだよな。宮崎さんだもんな。
 アニメの二郎は飛行機のことしかアタマにない朴念仁(ぼくねんじん)かってというとそうでもなくて、若い女性にはけっこう目がいってるし、紳士的で優しいんですよね。自分の男性的魅力にも気づいてると思う。
 いっぽうの菜穂子にしても、純情可憐な令嬢ってわけでもなくて、前回述べたとおり自分から巧妙に二郎を誘い込んだりもするし、「二郎の心が自分に傾いた。」と確信した際には、「してやったり」みたいな表情を(にっこりと可愛く)する。しかも、ソッコーで父親に紹介して、逃げ道を絶っちゃうんだからね。あのばあい、二郎のほうもぞっこんだったからいいけども。
 だから純愛ものには違いないんだけど、どっちも意外と大人なんですよ。そこがいいですね、コクがあって。

 カストルプの話をやりましょう。
 カストロプじゃないよ。原語ではCastorpだからね。「ロ」にはならない。
 まず名前だけど、これは20世紀を代表するドイツの文豪トーマス・マン(ノーベル賞作家)の主著『魔の山』の主人公の苗字です。ただし、このハンス・カストルプ君はあんな海千山千っぽいオジサンではなく、単純な青年です。「単純な青年」と作者(語り手)がはっきり言ってます。
 その単純な青年が、いろんな人とのかかわりを通じて成長していくというのが骨子で、だからこれはドイツ文学の伝統芸である「教養小説」(成長小説、と訳したほうがわかりやすい)なんですね。
 「魔の山」と聞くとおどろおどろしいけど、べつにゴシック・ホラーでもミステリーでもない。形而上的な議論がふんだんに出てくる大長編、という点では、ワタシ個人はドストエフスキーのほうが好きですが、『魔の山』が格調高き名作であることには疑いを容れません。新潮文庫・岩波文庫で翻訳あり。
 ついでにいうと、日本では、北杜夫、辻邦生さんがことのほかこのマン先生の影響を受けてます。マンの『ブッテンブローグ家の人々』がなかったら、北さんの『楡家の人びと』もなかった。
 アニメの中のカストルプも、「ここは魔の山」というセリフを吐きますね。原作の「魔の山」はスイス山上の療養所(サナトリウム)のことだけど、軽井沢のホテルも、地上の喧騒から隔絶された場所、という点で共通してるわけだ。
 巷間、カストルプ氏のモデルはリヒャルト・ゾルゲ説が最有力ですね。ほかにも、高名な哲学者などいくつか名前が挙がってますが、でもカストルプ氏がスパイ……少なくとも日本側からそう見られるに足る活動に従事してたのは間違いないでしょう。
 二郎は軽井沢から東京に戻ってすぐに特高に目をつけられるけども、ストーリーの流れからいって、その理由はカストルプとの接触以外に考えられない。カストルプ自身も、逃げるように軽井沢の地を後にしてたしね。
 ゾルゲというのは……手塚治虫の『アドルフに告ぐ』にも出てくるし、篠田正浩監督のライフワークみたいな『スパイ・ゾルゲ』って大作もあるんだけど、やっぱ若い人には説明がいるかなあ……ひとことでいえばソ連のスパイですね。世界の諜報史にその名を刻む大物といっていい。
 日本には、『フランクフルター・ツァイトゥング』紙の東京特派員という肩書で滞在、ついで駐日ドイツ特命全権大使オイゲン・オットの私的顧問の地位も得た。これで人脈がぐんと広がった。有能で魅力的だったんだね。一流のスパイだったら当然だけど。
 彼がとってくる情報はとても精度が高かったんだけど、スターリンってのは猜疑心のカタマリみたいな男で、それをほとんど生かせなかった。そのせいで、独ソ戦の緒戦でソ連は大敗してしまう。
 でもそれでスターリンがゾルゲを信頼したかというと、むしろ逆で、ますます疑うようになった。そして最後は見殺しにする。スターリンとはそういう男だった。まあ独裁者ってのは大なり小なりそんなもんでしょうが。かくしてゾルゲは最後には日本で処刑されました。
 ゾルゲ自身は、スターリンなんぞに忠誠を誓ってたわけではなくて、ドイツのファシズム、つまりナチズムを恐れてたわけね。それは放っておけば世界を滅ぼすだろうし、ドイツそのものにも多大な不幸をもたらすであろう、と。だからそれと対抗するためにも、スターリニズム(ソ連型共産主義)に生命をかけて尽くしたわけだ。
 後になって思えば、スターリニズムも、ナチズムに劣らぬ「双子の悪魔」だったんだけどね。
 ともあれ、ゾルゲは私利私欲でスパイ活動をやったわけじゃなく、自分なりの正義を貫き、それに殉じたわけです。まあ政治の世界、とりわけ諜報の世界なんて魑魅魍魎(ちみもうりょう)の巣窟で、真相なんてわかりませんが、とりあえずここでは、そういうことにしておきましょう。
 食堂での初お目見えのさい、山盛りのクレソンをむしゃむしゃ食べる場面が印象的なカストルプ氏だけど、あとで二郎とふたりベランダのとこで差し向いになったとき、いかにもゾルゲが言いそうなことを言うんですよね。
「ここは忘れるにはいい所です。チャイナと戦争している、忘れる。満州国作った、忘れる。国際連盟抜けた、忘れる。世界を敵にする、忘れる。日本破裂する。ドイツも破裂する。」
 でしたっけ。「破裂」は「破滅」が正しいと思うけど、微妙に日本語を間違えるところが不気味っていうか。
 で、たしかその後に、「止めなければ。」とも言ってましたよね。
 いかにもゾルゲが言いそうなことを言うんだけども、これ、考えたら変でしょ。スパイってふつう、「いかにもその人が言いそうなこと」は言いませんよね。本来の自己とは逆の役を演じるのがスパイなんだから。
 ゾルゲほどの大物がそんな下手を打つとは思えない。だから、もう少し脇の甘い、「協力者」くらいの立場の人物じゃないか……とぼくは思うんですが。
 時代背景をおさらいすると、1931(昭和6)年が満洲事変。
 1932(昭和7)年が五一五事件。犬養毅首相暗殺。
 1933(昭和8)、つまりまさにその、二郎と菜穂子とが再会した年にドイツでナチス政権が成立、片や日本は国際連盟を脱退しています。
 さて。カストルプはそのあと、食堂のピアノでドイツ映画の名作オペレッタ『会議は踊る』(1931 昭和6年)の主題歌『唯一度だけ Das gibt's nur einmal』を演奏し、そこに二郎と、菜穂子の父も加わって大合唱になる。
 ここで皆でこの歌をうたうってのも凄い趣向で、つくづく宮崎監督、凝ってますなァって感じなんだけど、この名作が日本で配給・公開されたのはじつは1934(昭和9)年。二郎の軽井沢行きは、さっきから言ってるように1933年。さすがに二郎も菜穂子の父も、公開前のドイツ映画を観る機会はないはず。だからこれは厳密に考証すればおかしいんだけど、そこは宮崎さんの演出ですね。知るはずのないヴァレリーの詩句を13歳の菜穂子が暗唱できたのと同じ。
 それでその後日、カストルプ氏、クルマでもって風を巻いて、軽井沢をあとにする。何も知らない二郎と菜穂子はのんきなもので、手を振ってましたね。あれもまた、ぼくが彼をゾルゲとは思えない理由で、ゾルゲだったら、1933年の時点でそこまで追いつめられるはずがない。彼が日本にやってきたのはまさにこの年で、これからいよいよ本格的に活動を始めようって時なんだから。
 だけどまあ、堅苦しいこたぁ言わないで、「お話」としてみるならば、そりゃゾルゲと考えたほうが興味深いし、そう思って観ればますます作品の味が濃くなるのは確かですけどね。




コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。